常々感想記

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7/22『第三帝国』発売記念翻訳者トークイベントにて

ボラーニョの新本の来週発売に先駆け、先行販売と翻訳者のトークイベントが新宿紀伊国屋南店にて開催された。この『第三帝国』は死後発見された遺稿から出版された本で、白水社で刊行中のボラーニョコレクションの中では一番長い本である(野生の探偵たち、2666はボラーニョコレクションではない)。

 

翻訳者は柳原孝敦さん。5月にセルバンテス東京で行われていたボラーニョ関連のイベントにも出席していた。トーク相手に都甲幸治さんを迎えての対談形式のイベントだった。

少々遅刻しての到着。途中からしか話を聞けなかった。どうして遅刻してしまったのだろうか。新宿紀伊国屋本店しか行ったことなかったので迷った。なんでも新宿南店は来月から規模が縮小されるらしい。ぼくが到着した時には鏡の話をしていた。鏡は……なんかのモチーフとして使われているという話。

この対談の中で1番なるほどー、と思ったのはボラーニョは青春小説みたいな言い回しを良くすると。あるかもしれない。どうしても一種の虚構の中の虚構、つかみどころのない構成に目が行きがち。書かれている内容の詳細さ、どこからどこまでか本当かわからない記述に翻弄されがち。

でももって回った言いまわしの仕方そう言われればしている。今ボラーニョの他の著作である『2666』を読んでいるところなのだがその中にも照れ臭くなるようなやり取りが確かにあった。

「あなたがわたしを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」とわたしはあとになってから言いました。「わたしがあなたを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」

メロドラマの中で出てきたら歯の浮くような台詞だと思うだろう。今回聞くまで意識していなかった。

他にもボラーニョという作家の特異さ。現代の作家でありながら死後の発見される遺稿の膨大さ、死後出版される本の多さ。先ほど著作にはどこからどこまで本当かわからない記述が多い、というようなことを書いたが、すごく細かいところに本当のことが書いてあったりする、と。それこそ専門家でなければ知り得ないぐらいの深度の知識を書いていたり。

初めて読んだボラーニョが『アメリカ大陸のナチ文学』だったせいか、ボラーニョの記述は彼の想像の賜物と思って読んでいたぼくにとっては驚きがあった。

他にも小話。

ボラーニョコレクションの帯に使われている写真は原著の表紙に使われているものだそう。イベント終了後に原著を見たが、雰囲気抜群でした。また柳原さんにサインもしていただきました。この内容をどうやって訳しているのだろうと、ボラーニョを訳す方には尊敬の念を抱くばかり。

そしてイベントには翻訳者の野谷文昭さんもいらしていて、ボラーニョの小説の視点のうつろいやすさ、語り手の代わりやすさ、とっている態度の違いについて訳す時どうだった?と柳原さんに聞いていました。

いや、行ってよかった。ボラーニョを読む気がムンムン出てきた。この『第三帝国』もすごく面白そうだ。ファシストが勝ってしまうような小説であると、勧善懲悪の話に慣れている我々にとっては新鮮な驚きがある小説であるそうだ。

ボラーニョはファシストと戦って負けながらも、それでもまた戦いを挑んでいる作家ではないか、と都甲さんは言っていた。

『2666』を読み終わったらすぐにでも読みたいが、他にもなかなかに積んでしまっている本があるんだよな。くう、何から読もう。

 

第三帝国 (ボラーニョ・コレクション)

第三帝国 (ボラーニョ・コレクション)

 

 

『伯爵夫人』erectio

声に出して読みたい日本語。次々と繰り出される淫語は小気味よく笑いを誘う。伯爵夫人とは何者なのか。活動写真(映画)を揶揄しつつ小説の構造自体もその揶揄されている通りなのではないだろうか。

 

あらすじ

おっぱいいっぱいおまんこいっぱい

 

こんな笑劇だと思っていなかったので電車の中で笑いをこらえるのに必死。言葉の選び方に悪意を感じる。未成年で学生の「私」と一緒に暮らしている伯爵夫人とのpillow talkと実践。周囲にいる女性について一家言。

むしろ、「青臭え魔羅」を「熟れたまんこに滑り込ませようとする気概」をみなぎらせてこれ見よがしに射精したのであれば、「熟れたまんこ」の持ち主には礼を失した振る舞いとは映らなかったかもしれない。

笑うしかないでしょう。青臭え魔羅と熟れたまんこ。あけすけに恥じらうこともなく開陳される知識と経験加えて愛撫は未成年ながら彼の祖父と瓜二つの素晴らしい逸物を持っている「私」を揺り動かし射精させる。

女と戦争は繋がっているという話になり、性を活かして戦う女の姿を描き(伯爵夫人の実体験という体)、開戦の日を迎える。男だけが戦争しているのではない、と伯爵夫人は言う。

下の話に始まり終始その話ばかりしている印象を受けるが、蓮實重彦がこの伯爵夫人を書くきっかけになったかもしれないというジャズ評論家の12月8日の小話を思うと、下の話は12月8日を書くための装飾だったのかもしれないと思う。

青臭え魔羅や熟れたまんこ、一尺三寸や割礼された逸物。従姉妹の未成熟な薄い胸。ただ翻弄されるだけの「私」。

短い時間で書き上げたらこのような出来になるのかな。

ルイーズ・ブルックス似の女がその鬘を外した禿頭で  こう見えても、この私、魔羅切りのお仙と呼ばれ、多少は名のしられた女でござんす。と剃刀を持っている姿はおかしくてしょうがない。数秒後には返り討ちにあっているのなら尚更である。

時代がかった言い方と嘘くさい物語。そこに魅力を感じるか、それとも愛想をつかすかは人次第。ぼくは好きです。

小説(に限らず)はほぼ嘘で作られていて、その嘘を『嘘だと感じさせない思わせない』か『嘘だとわからせた上でその嘘を楽しませるか』のどちらかだと思っている。この小説は明らかに後者で(著者には楽しませるつもりは皆無でしょうが)嘘を嘘でもいいと思わせる力は見事。大仰な語り口と止まることを許さないpillow talkのなせる技か。

伯爵夫人と彼女に限らず、他にも女性が登場し彼女たちも嘘くさい胡散くさい。どれだけ魔羅魔羅言えば気がすむのか、逸物を触るのか、愛撫するのか。登場する女性の中で誰が一番好きか?という俗な楽しみかたもできるほど。ぼくは  コメントを控えさせていただきます。

「私」がどうしても印象薄くなってしまうが、彼の性に対する理念は天晴れで、世界の均衡を崩すまいとしてあなたに手を出さないのです、と伯爵夫人に言う。一聴、意味がわからない気もするが、その均衡が崩れた時戦争が起きたのだろうか。

本の表紙もルイーズ・ブルックス(だよね?)。伯爵夫人は何処に行った、と思うが彼女は「私」の元からも去るので従姉妹の成長した姿かもと思われるルイーズ・ブルックスが表紙なのはぴったりか。

第29回三島由紀夫賞受賞作で授賞式での著者の振る舞いがいろいろ物言いを呼んでいるようですが、ぼくとしては「面白い糞爺だな」と思います。嫌いではありません。

著者に対して糞爺と言うのは度を越した失礼だと思いますが、他にうまく言葉を選べないので頭を下げて「どうか堪忍してやっておくんなせえ」

www.huffingtonpost.jp

伯爵夫人

伯爵夫人

 

 

『足摺岬』

寂しいのは自分をわかってもらえないし自分でもわからないから。理由は言葉にならずただ己の心の中で形を持たず、ふわふわとしている。

言葉にならない気持ちが涙になり慟哭になり、岬へと足を運ばせる。「死ぬ」ということは解放を意味するのだろうか?いや解放されていないからこそ自死を選ぶのではないだろうか。妥協できず頑固に考えを曲げないから死を選ぶ。

あらすじ

死を決意した学生の「私」が四国で巡り合った老巡礼との邂逅と、その無償の好意で救われる『足摺岬

寂しさがみなぎる主人公たち。どの短編も世の中からはみ出してしまった孤独を書く。こんなにも寂しい短編たちは初めてだ。救われることはなくむしろ崖下へと突き落とされていくような人物。

仕方がない、と諦めの言葉が口をつく。「誰が悪いわけでもない」だからこそ苦しむし、もがく。

今の自分の状況は幸せなんだ、と思わされる。今の世の中は随分と優しくなったんだと。日本といえども昔はあり得た艱難。それを扱い、人はどう生きるかを書く田宮虎彦も寂しい人だったのか。

淡々とした筆致の中に心を抉るような『寂しさ』。どんな悲惨な状況も立場も、あくまで人となりを作るためで、必要以上に入れ込むことはない。

 

足摺岬』でも好意に救われ自ら死ぬことはやめたがその後少しでも状況が好転したのか、と問われればぼくの読んだ印象ではしていない。

が、自殺しようとした心境を、その心持ちを一瞬でも老人と分かち合うことができたから決して幸せでなはない生活を送ることができたのだと思う。

自分の中にある業の背負い方は人それぞれだが、投げ出さない人たちだからこそ孤独になってしまうのか。

足摺岬 (講談社文芸文庫)

足摺岬 (講談社文芸文庫)

 

 

『美濃牛』(みのぎゅう)

どこかに置いていないかと探し続けて数年。もちろん古本屋にも行く。しかしどうしてもない。先日ついに取り寄せしようと思い問い合わせる、絶版とのこと。再版してると思ったが……意外です。

もう面倒になったのでネットの力を借りて手に入れた。

 

著者(殊能将之)の言葉

たくさん引用が出てきますが、全部ちゃんと読んでいるなんて思わないでください。著者はとても不勉強な人間です。

この本の印税が入ったら、飛騨牛料理を食べに行こうと思っています。 

殊能将之といえば『ハサミ男』で知られている作家でしょう。講談社文庫『ハサミ男』のそでに書かれている著述リスト5作中3作が絶版ながらも未だに『ハサミ男』は再版され続けている様子(今では子供の王様も著述リストに追加されているはず)。

再版される本がある一方絶版されている本もある。2013年に著者は亡くなっているが、その後新しくホームページをまとめた本、未発表短編集の出版があった。奇特。殊能将之は偏っている。

著者の言葉にわかるように、この『美濃牛』は引用、そして趣味人好事家から語られる来歴または由来の量がおびただしい。名探偵石動戯作が作中でスノビズムを皮肉るが、あくまで好事家が語るスタンスなので疎ましくはならない。ぼくは楽しく読めた。嬉々として皆語っているからでしょう。いくら知的でも石動戯作はその名の通り基本的にふざけているので、真面目に受け取らないということもあります。

E=mc2 秋の暮れ

アクィナスを嫁に読ませちゃいけません

by春泥

ユーモアがある俳句。悪ふざけとも言う。春泥は石動が使っている雅号。作中で石動が作った俳句。

巻末には何をどう参考にしたのかわからない参考文献一覧が載っているが……全部ちゃんと読んでいるとしたらあまりにとんでもないことになる。著者の言葉を信用するべきかしないべきか。

 

あらすじ

岐阜県の暮枝に奇跡の泉の噂が立った。石動戯作はその噂に目をつけた不動産会社の先輩の命令(依頼された仕事=地上げ)のため、自分の足で訪れる。フリーのライター天瀬、カメラマン町田も一緒だ。

地方の有力者羅堂家の私有地内の鍾乳洞の中にその泉があるため、その一家と交渉を続けてていると殺人事件が発生する。首を切られ泉があると噂される鍾乳洞の前で吊るされた死体。するとその事件を皮切りに羅堂家の面々が次々と殺されてゆく……。

不思議な推理小説。初めて人が死ぬまでにやたら紙幅を費やす。ノベルスサイズで140ページあたりまで誰も死なない。またわらべ唄の通りに殺人が行われるが、そのわらべ唄に言及されるのがすでに半分も読み進んだところ。

何より名探偵石動戯作が全くといっていいほど推理をしないこと。これは探偵としての役割=真相追及をしないということではなく、考えたり悩んだりすることがあまりに少ないということだ。いつもふざけているせいあるのか、何時の間にか答えを出しているような印象を受ける。

飄々とこちらを煙に巻いている間に一人悠々と真相にたどりつく……他の登場作も読めばそうでもないが、この『美濃牛』だけで判断するとそう思う。しかし他は特徴的すぎる作品ばかりだからな……

そしてもう一点。先に挙げた点と共通するところもある。それは事件そのものが主役ではないところ。舞台は岐阜県暮枝という架空の村だが、この舞台が主役。魅力的なこの村に住む登場人物たち、そしてわらべ唄に始まる不思議な雰囲気を生み出しているのはこの暮枝に他ならない。不合理なことを不合理なまま置いておけるのもこの暮枝のおかげだ。

ウィリアム・アイリッシュの『夜は千の目を持つ』に雰囲気が近いような近くないような。似てるような似てないような。似てないか。

 

この小説はそれ自体が推理小説への著者の意見具申だ。よく名前が出てくるのは横溝正史だがそれ以外の作家への所感も含まれている。なにより一番強く感じたのが著者の「推理小説の文脈なんて気にしない」というような態度。より詳細にいうならば「推理小説を研究してきたけど、先人たちと同じようなものを書いてもしょうがないから、わざと文脈を崩していこう」

石動は何かと「大学時代はコール・ポーター研究会通称ポタ研に所属していた」と言う。そのコール・ポーターの曲に”it's delovely”というのがある。この替え歌”it's deconstruction”を過去に作って歌ったというエピソードが披露され自ら進んで石動は歌うのだがこの歌詞が探偵小説も揶揄しているようにしか聞こえない。著者が自作していた歌詞をこれぞとばかり小説に載せたんじゃないかな。

deconstructionは脱構築という意味。何から脱構築するのかな?

原曲を聴いて、替え歌を頭の中で反芻すると石動の性質(タチ)の悪さに笑うしかない。

 

この『美濃牛』だけじゃなくて他の作品も読んだ上で思ったことだけど……絶版になる理由もわからなくもない。『美濃牛』においては長さがネックなのだろう。文庫化したら700ページ超。それでも、部数少なくてもいいから再販すればいいのに。

長さは全く気にならず、スラッスラ読めた。

不思議な推理小説といっても正統派を意識した上での不思議さ。だから自然に読めると思う。これが次作になるととんでもないことに……。

電子書籍で買う気にはあまりならないんだよなぁ。

 

『黒猫白猫』オスメス

マイベストコメディ映画の座を射止めたのはエミール・クストリッツァ監督の『黒猫白猫』。すごくいい映画。見ないのは持ったいない。むしろ見なさい。色々とあほらしくなってくるから。先週の文芸座で観てきた。

一応あらすじ

ジプシーのマトゥコは、自称ダマしの天才。ある日、彼はロシアの密輸船から石油を買うが、見事に騙されて大金を失う。金に困ったマトゥコは、息子のザーレとともに、“ゴッドファーザー”グルガに石油列車強奪の計画を持ちかけ資金援助を乞うが……。 

あらすじなんて気にしないでください。見ているうちにのめりこんできます。最初は少し退屈かもしれないけど(ちょっと寝ちゃったし……)。しかしこのあらすじ、ゴッドファーザー……と思うぼく。 

素晴らしいのは『UNDERGROUND』の時にも言った音楽。極上。またもやサントラを購入する羽目に。そんなにいいのかと疑問を持たれるかもしれないが、無軌道さごった煮でなんでもアリ感がいいんです。

聞く場所を選ぶ音楽ってやっぱあって、これは家にあるちゃちなスピーカーで聴いてもその真の素晴らしさには迫れない。酒宴宴会おてんとさんの日の下でみんな集まって笑って演奏しているのが聞きたい。劇中では大きな木に何人もくくりつけられながら演奏していたりする。阿保。

それは叶わないので映画館で聞けたのは僥倖。でも室内が振動するぐらいの音量で聞きたい。ゲインMAXウーファー全開スピーカーが壊れても構わない……で聞いてみたい。体がウズウズして動き出したくなる音楽。リンク貼る、と思いきやないです。ニコ動にはあるみたい。調べてたらスマホゲームの動画ばっかり出てくる。邪魔。

 とりあえず貼る。

www.nicovideo.jp

 少しでもそのエネルギーを感じれたらいいと思う。

サントラには輸入盤と国内版二つあり、輸入盤を購入。内容に代わりはないみたいだし輸入盤の方が値段高かったけれどジャケットで選んだ。それがこれ。

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 変。

 

 ベタってそれがいいからベタとして残ってるんだよな、なぜかそんなことを思った映画。加えてやっぱり画が面白いのがいい映画なんだよ。『ゴーストハンターズ』に引けを取らない画面だらけ。

話の展開としてはお金欲しさしにした行動がどんどん転がって途方もない事態を引き起こす単純なもの。見せ方がいいとこんなに印象が強烈になるのか。ジャケットに負けず劣らずのおかしさの波状攻撃。井戸での水責め、うんこをガチョウで拭く男、疾走する車椅子、釘を尻で抜く太ったおばさん、動く切り株。

自分の目で見て欲しい映画です。

タイトルの『黒猫白猫』をはじめとして動物も活躍するのでそこにも注目。 どうやって撮ったのか不思議なシーン多い。

DVDしかないみたい。Blu-ray出ないのか。残念ながら文芸座での上映は終わったのでDVDで見るしかない。何回みても笑える映画だと思う。

 

 

 UNDERGROUNDについてはこっち。

cigareyes.hatenablog.jp

 

 

 

 

どこから『私の消滅』するか

中村文則はいつか読もうと思っていた作家。『私の消滅』が本屋の店頭に並んでいるのを見て「早いな」。文学界の六月号に掲載されたばかりだろう。予め決まってたんだろうな。パラパラと単行本をめくった。違いは巻末に参考文献についての一言と内容についての多少の言及があったことか。

 

あらすじ

ある精神科医のある復讐について

これは内容をいうとダメなやつ。そうなんです。ダメなんです。興が削がれます。是非自分で読んでいただきたい。ある精神科医のある復讐についてで勘弁願いたい。

中村文則の文章は暗いね。暗くて冷たい(表紙もわかっているのだろうか不安を抱かせるような印象)。それでいてより暗いとこを探ってるような印象。他の本もそうなのかわからないけれど、固有名詞は登場人物の名前と道具ぐらいで、地名が徹底的に伏せられている。どこであった話かわからない。いつ起こったのかもはっきりわからない。それがこの小説に浮遊感を与えていると思う。それでぼくは安心できる。ぼくのいるこの世界とは隔絶された感じがするから。そんな中に実際にあった犯罪の話を持ってこられると打って変わって居心地がちょっと悪くなるんだけどね。

題名にもある通り『私の消滅』についての話  ダメだこれも言えない?この小説では“私”が何を指すかが重要で、それはどの”私”だ?っていうのが大きな関心事なんだけど……これが限界?

幾つかの手記と手紙によって物語の肝が語られていくが、その扱いが抜群にうまい。すごいなコレ。

 

文字を目で追っていく。その時ぼくは文字、文章、本と決定的に分かたれている。ぼくはここにいて、言葉は向こうだ。けれど、ある瞬間カミソリですっと、静かにぼくが刺されている。ぼくは動揺し、紙面に血が垂れる……。「私は誰だ」

 

詩人になってしまいました、が『私の消滅』はぼくにとってそんな小説でした。すごい面白かった。楽しい小説ではないけれど(純文学かつ究極のミステリーって銘打ってるものが楽しいわけはない)むしろ暗くて惨たらしいです。浸れるか否か、だな。

冒頭を引用します。多分めちゃくちゃ読みたくなると思う。

このページをめくれば、

あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない。

文學界2016年6月号

文學界2016年6月号

 

 

 

私の消滅

私の消滅

 

 

 

 

re:『UNDERGROUND』

以前にもこの映画のことには触れたがその時は見終わった後の気持ちに任せるがまま書いたので感想と言えるほどのものではかった。今週末に文芸座でエミール・クストリッツァ監督作品の上映がある。これは時機を得た。改めて振り返り今週末に臨もうぞ。

 

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・ストーリーについて

と言ってもどこから触れたものかと思案してしまう。そこでこの映画を端的に幾つか言い表してみよう。

 

一人の女を二人の男が取り合う話。

戦争でコメディーの話。

大衆映画の手法を芸術映画の品格を組み合わせた話。

一般向けでない話。

祖国に想いを馳せる話。

監督の抱えこむある種の感情と悲劇が反映された話。

 

あたかも自分で考えたかのように書いているが監督インタビューからも抜粋しました。一つ一つを見ればわかるような気もするが、これ全部同じ映画のことを指してると言ったらちょっと複雑かもしれない。

監督インタビューで言っていた。「万人向けの映画ではない」と。僕もそう思う。だけどいい映画なんだ。これは。

ここでまた監督インタビューから抜粋。

Qこの映画の着想のもとになった戯曲、原作の要素はどのくらい映画に使われているのか?

A実際にはほとんど使われていない。恋する男が、恋敵に戦争が続いていると思い込ませる策略によって、20年地下貯蔵庫に監禁するというアイディアだけだ。

そしてあらすじ

1941年、ナチス・ドイツ占領下のベオグラードを逃れ、敵の目を欺く為、パルチザン(?)として活躍する男のいい加減なアイディアのもと広大な地下空間(アンダーグラウンド)に避難し、戦後も人知れず半世紀の間生活していた人々のエキサイティングな一大群像劇。

大綱はつかめただろうか。こういう映画である。

 

・戦争コメディー

なんて不謹慎な、と日本では言われそうな括り。戦争なんてものを喜劇の対象にするなんて思慮が足りない、とか。そんなこと気にせずに見ましょう。

この映画、戦争を喜劇的に描いているが、それは戦争という状況のなか生きてゆく人間が笑劇的なのであって戦争そのもの自体を笑えるものとして扱っているわけではない。必要以上に悲劇的にすることを望まなかったのだろう。今の時代戦争=陰惨破局悲劇悪徳、という図式が出来上がっている。その通りなのだが、戦争している時にどれだけそのことが考えられていたか、という点について戦争当時から見ると後世に当たる現代では認識不足な気がする。「実際自分がその渦中にいたらどうなのだろう」と思わなくもない。

この映画、戦争という状況のなか強かに生きてゆく人間がいる。その姿はズルくて自分のことばかり考えている賢しいサルみたい。でもありうる。どんな状況でも人は生きてゆく、と思わされる。笑って酒飲んで喜んで踊って怒って殴る。当たり前のことはいつでも起こる、と。

 

・自然とエナジー

「芸術作品にとって最大の敵は自然だ」これも監督言ってました。三万平方メートルに及ぶセットを作り上げてこの映画は取られた。自然さを避けること、自然に見えることが大事だと。

本物の建材はまったく使われておらず(費用のこともあるし)全て技術でそう見せている。どれだけの技が駆使されているのだろうか。写っている場面に関して違和感を感じることはなかった。その舞台美術に圧倒される。

「どんなに強烈な印象も映像にすれば薄れる」そう語る監督は舞台に力を入れ、道具に力を入れ、衣装に力を入れた。言葉が足りないが、すごいとしか出てこない。コメディー的な装飾もあって、場面ごとにきちんと使い分けている。

この映画で僕が一番好きな舞台は船だ。序盤に出てくる船、(一方的な)結婚パーティーの場。狭いデッキに楽団並べ、酒盛りし、そんなところにナチスが襲ってきて船内に立て籠もる。ここで二人の男と一人の女のドラマが繰り広げられる。服装のちぐはぐさ、船のありあわせの結婚祝賀装飾。いい。

画面から溢れ出るエナジーについて。美術もさることながらこれは音楽の功績が大きいと思う。粗雑でがさつで煩くて荒々しい音楽だが、それが味わい深い。映画を見終わった後すぐにサントラを購入したぐらいだ。これは民族音楽、なのだろう。戦争中に宴の場でかき鳴らす音楽には力があった。音楽のなかに文化が聞こえる。

 

・祖国の有無

ぼくはユーゴスラヴィアについて詳しくない。しかし自分が生まれた国が今はなく、違う名前になり、かつての国土もバラバラになっていたらどういう気持ちになるのか。直接的に描いていないが、この映画のバックホーンにはそれがある。この映画実はスロベニアクロアチアでは上映禁止らしい。どちらの国も旧ユーゴスラヴィア領である。『コントロールされることへの反抗』を描いた作品だからだろうか。

 

・ラストシーン

淀川長治さんの言葉を借ります。

祖国、旧ユーゴの苦痛から解放されてゆくこの映画のラスト・シーンの素晴らしさには涙で画面がくもってしまう。

ラストシーンの素晴らしさは僕も感じた。もはや僕が言うまでもないがそのくらいすごいということ。当たり前だがそこだけ見ても感動はしない。あくまで映画の中のワンシーンだから映画を見ていないとその感動は薄れる。3時間弱の映画でそこに至るまで少々長いがその価値はある。これだけ印象に残って、感動するラストシーンの映画はそうそうない。映画の最後っていうのはこうあるべきなんだ、と思ってしまうほど。しかしBlu-rayの背面になぜ本編時間が”約150分”と書かれているのかわからない。初めて見た時は2時間半たっても終わらず「いつ終わるんだ?」。映画に没入しきれずちょっと残念だった。

最後のシーンに出てくる島はユーゴスラヴィアを形取ったもの。暗喩。こういう渋い仕事をする監督大好き。「許そう、しかし忘れないぞ」というセリフがラストシーンにあり、これがコーヒーに入れたミルクのように、最初は意表を突かれ馴染まないが、コーヒーとミルクが混ざり合ってカフェオレになるように、すぐ得心し、そのセリフが背負うものを思うとまさにこのセリフの為にこの映画があったのではないか、と思うほどの融和。でもこのセリフも引用。やってくれるなぁ。この監督の他作品『パパは、出張中!』からだそうだ。自分の映画で遊んでる。

 

エミール・クストリッツァ監督について

Blu-ray二枚組の二枚目。約一時間にわたる監督インタビューが収録されている。刺激的な話も多く、このインタビューを踏まえて映画を再見すると見えてなかったものが見えてきそうだ。思想的な話やメディアについて映画産業についての話が多く、映画を作る際の姿勢が窺い知れる。映画に関連して印象に残った発言を幾つか(適宜表現変わっているところあり)。

「芸術映画で垢抜けていない監督の作品が評価されたことは嬉しい」カンヌで賞を取った時に言ったこと。「映画を撮り終えた後、楽しかったというスタッフが居るがそれは嘘だ。映画を作り上げるには犠性を払わなければならない」楽しいだけでは映画は作れないってこと。一つの作品を作るためには多大なエネルギーが必要で自分で自分を発奮しないといけない……。「過度に独創的でありたいと思わない。わたしを構成する全てをわたしは表現したい」影響を受けた作品について、引用することについて。「映画には二種類ある。大きな興業収入をだして見た後に忘れ去られる映画とそうでない映画だ。この映画は後者であると自負している」芸術映画についてのこだわりと、ハリウッド映画に対する嫌悪感が滲みでている。

まだまだあります。とても興味深く面白いインタビューでした。政治について、メディアについてと他にもまだまだ語っています。

映画についてこだわりがある。好きな監督にルノワール、ルビッチ、フェリーニタルコフスキー等々を挙げる。本当に映画好きなんですね……。

 

よし、これで今週末に臨めるぜ。

 

 

アンダーグラウンド Blu-ray

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