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『ロリータ』コンプレックス

スタンリー・キューブリック監督の『ロリータ』は原作者ナボコフが脚本を書いたもののその2割程度しか使っておらずナボコフも不満を漏らしていたという(書いた脚本がそのままだったら7時間にも及ぶってなったら仕方ない気もする)。十分いい映画だと思った私(5、6年前に見たきりだが)は本も読もうと買ったはいいものの第一部だけ読んで放置していた。なんであの時放置したのかわからないほどに面白く、ぜひ原書で読みたい(できるできないはおいといて)。

 

あらすじ

「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」ハンバートは少女への倒錯した恋を抱くもひた隠しにして暮らしていた。しかしそんな彼の前に命取りの悪魔が現れる。彼の魂の真空を美しさあどけなさ情欲狂気で満たす悪魔。ロ・リー・タ……

 

ナボコフについて

『ロリータ』を書くまでは他にも職を持っていた。この『ロリータ』の成功を機に作家に専念する。といっても出版にあたってアメリカの出版社は当初出版を拒否し、最初に本として世に出たのはヨーロッパのフランスでのことだった。

ロシアで生まれ革命を機に亡命。1899年に生まれ1919年に亡命とあるから19、20歳で祖国から離れたことに。ヨーロッパを転々し、そしてアメリカで書いたこの『ロリータ』は英語で書かれた。自分の母語でない言語で小説が書けるなんて凄すぎる……。

多弁で自分の考えを表すのにためらいはないようだ。そうでもなきゃ小説家になんてなれない?『ロリータと題する書物について』という著者自ら小説について語るあとがきでは「私は霊感と組合わせの相互作用で作品を書く」と言う。意図なんてものはあるようでなく、とりあえず書き始めたら書き終える意図しかないと。著作が評価されることにあまり関心がないのだろうか?自分が書き上げた作品自体に対しては作品そのものが自身の慰めになる存在である。「ロリータは私にとって喜びに満ちた存在である」とナボコフは言う(書き上げてから一度も読んでいないと言っているが)。

自分の意図通りに読んでくれれば嬉しいが、読んでくれなくとも気にかけない。

こんなことを言う人ってたいがい寂しがり屋な気がする。

 

ロリコン

少女に性的欲求を持つこと(私の認識ではそう)を今では”ロリータコンプレックス”略してロリコンという。その語源となった本書だが、今の言葉の意味からは離れた内容だった。確かに少女に情欲を抱くこと、が作品の中で大きく扱われている。でもそれは性の対象としてだけではなくニンフェット、とハンバートが少女のことを呼んでいるように、妖精のような触れるようで触れない、決して届かないもに対する羨望と憧憬そして禁忌が書かれている。そしてそれを犯した自分に対する後悔。そして後悔をしつつ感じている倒錯した喜び。

ハンバートのロリータに対する愛情も徐々に性質が変わってゆく。10歳から14歳の間がニンフェットとして顕現できる年齢であると本人が言うように、成長したもはや少女でない彼女には自分が愛した少女の名残しか見つけることができない。かつて愛したという理由で愛し続け、彼女のために殺人まで犯すのだが、ロリータと出会った時と比べるとそこに熱はない。火が燃え尽きる寸前、最後に一瞬大きく燃え上がるようなもの。

彼の恋の対象のロリータは彼に人生を狂わされた。本人がそのことを重く受け止めていないことが哀しい。みすぼらしく、腹を膨らませ、お金をたかるロリータ。ああ、無垢で残酷だったニンフェットはどこに行ったのだろう!

ハンバートは中年男、しかし自分を美男子だと思っている。事実そのようだ。そのくせに少女大好き!となったらそりゃ世間の目は冷たい。彼が少女を愛するようになったのは幼少期のある出来事が遠因と述べる。その際に引用されるのがポーの『アナベル・リー』だ。少女の象徴としてこの詩が用いられる。

 

・筋の面白さ

ただ単に少女に恋する男の話だったらこんなに世界で話題にはならなかっただろう。あらすじでは書かなかったが起承転結は意外なほどしっかりしていて、ドラマがある。

ハンバートはロリータと出会い、ロリータと離れ、ロリータと再会し、ロリータのために人を殺す。いってしまえばこれだけの小説であり、これだけの小説だ。序の時点でハンバートが犯罪に走り、死んでいることが明かされる。なぜそうなったのか、何がそうさせたのか、を解き明かしていくミステリでもあるのだ。

知るために私たちはこの『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』を読む。その内容は衝撃的で嫌悪してしまう。出版拒否されたことからも当時1955年当時ではこの内容はあまりに赤裸々で露悪的。しかし魅せられてしまう。

 

・インテリ 

ハンバートの告白録が、このロリータだ。それにしたってなんて奥深い。『アナベル・リー』に始まる様々な作品からの引用、オマージュがおびただしい。そして辻褄の合わない記述。解き明かすのが楽しい(おい、お前解き明かしてないだろ。脚注読んでその気になってるんじゃねえ)。その結果、ある説ではこの告白録の最後はハンバートが作り上げた虚構の出来事だと言うものまであるらしい。面白い。面白いぞ。何度読んでも新しい発見がありそうだ。ここまで素晴らしい本だと思っていなかった。

その書き方一つとっても目を何度もみはる。仰々しくて絢爛な比喩や修飾はハンバートの心情を伝えてくれる。映画的であり小説的だと思う。

そしてそれから、後悔、涙を流して償う苦い甘さ、卑屈な愛、そして希望のない官能的和解。ビロードのような夜に、ミラーナ・モーテルで(ミラーナ!)、爪先が長い足の黄ばんだ裏に口づけて、私は自分を生贄としてさしだした。しかしすべてはむだなことだった。私たちは二人とも運命づけられていたのだ。そして私は、まもなく新たなる受難の周期に入ることになる。

これはハンバートがロリータを初めて殴ったシーンの後に挟まれる文章。この調子が基本的に続く。気障ったらしいしまどろっこしいがそれがいい。

それにこの小説の書き出し(ハンバートの告白録の)はすごいぞ。

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

強烈で鮮烈で衝撃的で異常。狂ってるんじゃないのか、と疑念を抱かせるほど。

 

映画版の『ロリータ』(2作あるがやっぱキューブリック版)ももう一度見よう。この映画版はロリータが小説より少し大人っぽくなっていて、映画ということもあり小説ではあった性愛描写もなく、またこれこそ映画ならではのモノローグから始まり過去回想に入るその冒頭の流れと最後に訪れるカタルシスまでの持って行き方がすごい。

さて、M(マゾヒズム)とL(ロリータコンプレックス)は読み終わったから次はS(サディズム)いってみよう。

 

 

ロリータ (新潮文庫)

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『重力の虹』HAHAHA!理解不能

 わっけわかんねぇ。

 

ささやかではあるがそれなりに本を読んできた身としては、たいていの本は読めると思っていたけれど今回そのチンケな自負をぶっ壊していただきました。ありがとうございます。世の中は広いね。あらすじをかけるほどに読めず内容も理解できず。表面的な書いてあることはわかるよ?わかるけどそれが何を言っているのかさっぱりんこ。

第1部を一回読んであまりにもわからなかったのでもう一回第1部を読んでそれでもわからなかったので「ああ、これはそういう本なんだな」と諦めてかなり時間かけて読みました。三ヶ月ぐらい?

そんな『読んでも意味がわからない小説』だったので内容について言及することができません。だからなぜ読んでも意味がわからないかについて書こうと思います。

 

・圧倒的な知識量

まず挙げられるのがコレですね。脚注の数がおびただしいことこの上ない。(私が読んだのは新潮社刊行佐藤良明訳のトマス・ピンチョンコレクション)脚注を読んでも正確にその意味を汲み取るのは難しいでしょう。

重力の虹』の舞台は第二次世界大戦のヨーロッパ(流石にこれくらいはわかる)で、その当時の流行や軍事行動、関連して工学知識をもふんだんに詰め込んだまさに百科事典的な本でした。ロケットが話の根幹にかかわってくるので特にロケット工学の話が凄まじい。また本来俗っぽいポルノやギャグがここまで多用されると頭が混乱してくる。宗教の話や意識についての哲学的な話。もうどんな話が出てきても驚かなくなります。

当時と70年近い隔たりがあるのでまたその知識が得難い。いや、分かりにくいといったほうが適切か。(Gravity’s Rainbow Companionという重力の虹についての注解書を始めとする数々の研究がその凄まじさを物語る。http://pynchonwiki.comこんなサイトもあるぐらいだしサイトを取ってもこれ一つでもない。)しかしその分脚注を読まずにわかった時は嬉しかった。まあホルスト・ヴェッセルぐらいだったが。

映画ネタ俳優ネタもめちゃくちゃ多くて登場人物をよく俳優で例えるのだがその当人を知らない、ので意味がわからない。もっと有名人で例えてくれと思ったが、昔有名だが今無名なんて人ざらにいるもんな。

また原語は英語なのでがその英語を生かしたダジャレやスラングが多用されている。正直日本語では味わいつくせないのではないか、と思った。

 

・あっちこっちいく物語

軸はタイロン・スロースロップという人物の話……のはずです。すみません、これすら確信を持って言えないです。あっちにいって、こっちにいって、あれ?今何の話をしているの?あれ?コイツ誰だっけ?

何回あったか数え切れません。もう途中からは一回読んでわかるような小説ではないと諦めていたのでわからないものはわからないまま読んでしまいました。

日時と場所がはっきりと言及されない(わかろうとすればわかる……っぽい)のでこの出来事はさっきより前か?後か?それとも別の場所の話か?

?だらけの物語。文はわかるけど文章としてはわからない。それにこの出来事が現実という保証は全くない。誰かの妄想ということがしばしばあり、その妄想にかなり振り回される。みんな妄想しすぎ。

断片的すぎるし、一貫性がない。

およそ1400ページ数ある本だったが、数百ページ前の内容が突然言及されることも多々あり「そんなの覚えてねぇよ!」という私の嘆きが自室に何度も響いた。

 

 

・今誰の視点なの?

これも相当ひどい。気が付いたら切り替わってる(ぽい)。段落が切り替わることもなく唐突に入れ替わることもしばしば。そもそも懇切丁寧に誰々が思った  などと書かない。場所と内容で判断するしかないのだが、それが先ほど挙げた圧倒的な知識量を必要ともするのでさっぱりです。そもそも主人公(のはずの)スロースロップの自我自体どんどん散らばっていっている(解説によると)ので、視点なんて考えるだけ無駄なのかもしれない。

つまりだよ、読ませる気がないんだよ!と思ってしまった私。

そもそも全米図書賞を受賞した今作だが、一体何人がこの本の内容を理解したが疑問に思う。「なんだかわかんないけどすごそうだから賞あげよう」っていう人が絶対いたね!間違いないね!

 

読んでも意味がわからないので何度寝落ちしたことか……。今までで一番寝落ちした本だ。多少とも読んだことのある人ならわかると思うけど、本当にわからない小説だった。だいたい何でキングコングの話のすぐ後にフリーメイソンの話が出て来るんだ。かと思えばすぐにファックしようとするし。電球の物語が始まるし。気球に乗って逃げるし。読む人は相当の覚悟をしましょう。

時折笑えるシーンあります。クスクスとガハハと。そのー難しいことは難しいですがインテリゲンチャな小説ではないです。結果として知識量を要求されますが、日本の古典並みに下ネタが多いし、よく叫ぶし。GAHHHHHHHとかYAAAGGHHHHHとか。

こんな本でも何回も繰り返し読めばわかるようになってくるのかな。

けど読んでもわからない本っていうのも面白いもんだね。「わからないことが面白い」という感覚というか。そんな本を読むのはかなりキツイけど。ピンチョンの多少の意地の悪さと「読めるもんなら読んでみろ」と不敵に笑ってる姿を勝手に想像して、またもう一回読むエネルギーとしたいと思います。今度ね!今度!HAHAHAHAHA!

 

 

 

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

 

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

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『オービタル・クラウド』個人的な話

まず陳謝。「三冠達成と言いはするが其の実我が心胆を律動させること叶わぬだろう」続けて曰く「荒筋を読んでも引き込まれぬ。良いものは荒筋の時点で魅力的なもの」さらに曰く「宇宙が舞台、しかし月よりも遠くに行かぬさいえんすふぃくしょんに目新しいものは見つからぬだろう」

ごめんなさい。生意気言ってすみませんでした。

おもしろかったです。ヘッドバンキングしながら読みました。ありがとうございます。

『オービタル・クラウド』というこの作品〈第35回日本SF大賞〉〈第46回星雲賞日本長編部門〉〈ベストSF2014国内編〉の三つにおいててっぺん獲っています。前々から気になっていた作品でした。「こんなにいっぱい賞とってるやがる昰……」なのに冒頭のようなツンデレみたいな態度をなぜかとっていて今の今まで読んでいませんでした。はい私捻くれ者です。

ある日、本屋に行くとこの『オービタル・クラウド』がありました。以前なら本棚の前で少し逡巡したのち他の本を手に取っていたでしょう。しかし今、目の前には“著者サイン本”がありました。少し逡巡します。ここまでは以前と同じですが、その後カゴに入れました。「コリャしょうがねぇよ、おいらの負けさ……」

 

サインイェーイ。今自分が手にした本を作者も手にしたんだなぁ。なんか不思議。 

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あらすじ

2015年イランのテヘランでは1人の研究者が紙とペンを武器に研究を続けている。そして今一つの気球を空に放った。

2020年日本。流れ星発生予測サイトを運営する木村和海は先日打ち上げられたサフィール3のロケットブースターの2段目の高度が何故か上昇していることに気づく。

アメリカのケープ・カナベラルからは民間宇宙ツアーPRプロジェクトが進められそのためのロケットが打ち上げられた。

同じくアメリカのシアトルでは日本人と朝鮮人が穏やかではない会話している。

宇宙規模のテロが今始まろうとしていた…… 

 

群像劇の醍醐味は点と点が線になり、その線が一つの絵を描くところ。今回は絵ではなく、糸になったというべきか。いろいろな人たちが登場します。場所もあっちにいってこっちにいって、と主人公がなかなか主だって出てこないので(主人公なのにね)少し焦れったくなるかもしれない。しかしその分動き始めた時の疾走感は心地よく、また没頭できる。うひょーいってね。最終的に一つのお話に収斂させる手際は圧巻の一言。思わずまだ読んでいないのに次のページを繰りそうになり、その度に自分の頬を打って制止します。「ダメよ!ダメダメ!」

さて『オービタル・クラウド』はどんな小説なのか。

宇宙でのテロを趣味がきっかけ(半分仕事)で知った木村和海という普通の人がそのテロを阻止する話です。

「オイオイ普通の人がそんなことできるわけないだろう?」その通り。しかし今は世界中繋がりまくってる時代です。電波ビュンビュンです。和海も一人で阻止するわけではなく、地球上のあらゆる場所にいる人から手助けしてもらいます。ある意味今だから書けたSFといえるでしょう。

一昔前ならテロを阻止する主人公なんていうのは超人でなければなりませんでした。ジェームズ・ボンドしかりイーサン・ホークしかり、はたまたジョン・マクレーン(こいつは違うか?)しかり。超人でなければそんなことできませんでした。今は?遠い場所にいても連絡が即時に取り合えるような世の中ではスーパーマンは不要です。必要なのはスペシャリスト。一点突破です。

お互いに足りないところを補いながら作戦を進めていく。これが現代のアクション大作です。この『オービタル・クラウド』もその例に洩れず、スペシャリスト達が自分の矜持をかけてテロ阻止に取り組みます。

世界とか国とかそんな大義の為ではなく、各々が己の誇りの為に立ち上がるのです。うーん泥臭くていいなぁ。個人的にはダレル軍曹が好きです。

 

とても現実味がたっぷりなSFです。そしてこの『オービタル・クラウド』嘘上手なSFです。これあるかも、と信じてしまいそうです。こういう本を読む時に私は”どこで嘘をついているのか”見極めようとします。(性格悪いなぁ……)今回のこの本では、スペース・テザー(テロの根幹を占める所謂“兵器”)は実際には飛ばせない!と見ました。

ローレンツ力という物理の初歩的な原理の応用でこのスペース・テザーは自在に動くのですが、単純すぎるものほど嘘がつきやすい。なんやかんやで飛ばす為には数々の障害(小説には描かれていないやつ)があるのではないか?と推測しました。機会があったらそれが本当かどうか調べてみよう。

ラズパイもあそこまでの仕事が本当にできるのかな?それはできるのか。

そしてもう一つこの小説で好きなところは、欧米人が主役ではないところです。

主人公は日本人、テロを企てるのも日本人(北朝鮮サポート)、そのテロの根幹技術を発案したのはイラン人。アレ?世界規模のテロなのに?勿論アメリカという大国が物語の上で大きな役割を果たしていることは間違いありません。でもSFというジャンルで、世界規模の小説で、これをやってくれた作者に対し拍手の嵐を送りたいです。なんか嬉しいです。よっ太洋屋!

この本を読んだ私はとりあえず自分のスマートフォンにロックをかけました。セキュリティって大事ね!

 

 

 

『こころ』時代性

都合三度目か、この本を読むのは。中学生で1回高校生で1回そして今大学生で1回。その時その時で感想は違うけれど、今回で始めて「やるな……」と思った。(何様だ)うーん、自分の未熟さを思い知るばかり。特に高校生の頃はこの本(てわけでもないが)バカにしていたからな。

 

・中学生の時

正直何を思ったか覚えていない。しかし夏目漱石作品で初めて読んだのがこの『こころ』だったはず。しかし印象が残っていないということは大したことは何も思わなかったし考えなかったのだろう。

単純に「遺書長い」程度だったと思われる。

 

・高校生の時

これが少々逸話というほどでもないがちょっとした話がある、といってもことは単純明快。『こころ』が学校の授業で扱われていたのだ。生徒全員『こころ』(新潮社の真っ白なカバーもの)を持っていた。学校で購入した本を生徒に配布、教科書として授業を進めていた。

現代文の授業で「はい◯ページ開いて」と皆『こころ』を取り出す。当時ぼくはそれが気に食わなかった。「小説の読み方は強制されるべきものではない、とくに文学作品においては絶対にだ……!」今ではそんなこと思っていない。いや、少しは思っているか。なんにせよ、そんな青臭く若々しい思いを頭の中に飼っていたぼくは当然授業を真面目に受けません。適当にやりすごし、テキトーに読んだ。「俺は俺の読み方をするぜ」←阿保

態度は感想にも現れる。「なんだよ先生バカかよ」「Kもなんで自殺すんだよ、バカかよ」「奥さんかわいそうだなオイ」「遺書長すぎんだよ。こんなもん郵便で送れんのか?」酷いものばかり。

しかし高校生のぼくはこれでいいと疑っていなかったのだからそれも吃驚。授業で扱っているからといって読み方を強制しているわけではないし、ただガイドラインを示しているだけってこと……今ではそう多少大人じみた考えを持てる。それが良いか悪かは別にして。でもやっぱいやだな!

 

と読み返すまでは『こころ』については散々な意見しかもっていない。

じゃ今回はどうなのさ。

 

あらすじ

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品

 

まずどうして高校でこれを教材としたのか、その理由を測ってみる。

1つ、著者が日本文学史上において錚々な名を残していること。

夏目漱石、と聞けば日本人は誰でも知っているだろう。かつては千円札の肖像にも使われていたのだから。彼が残した著作は今もなお多くの人に読まれ、影響を与え続けていると思われる。最近では『門』が朝日新聞紙上で再連載されていることからもその存在の大きさが窺い知れるものである。

他にも『三四郎』『坊ちゃん』『吾輩は猫である』という代表作は今でも名高い。これは文学史を勉強する上でもとっかかりになるので、教育現場で扱うのにふさわしかったのではないか。また日本人だったら夏目漱石の1つぐらい読んでいて欲しかったのだろう教師たちは。

2つ、三角関係という内容と高校生という年齢

授業で扱うから内容が教育観点からいって一応ふさわしくなければならない。かといって退屈な内容だったら生徒は読まない。その点、この『こころ』はなかなかふさわしい。端的に言えば三角関係を扱っており、そこそこ楽しめもするが、その表現と文体は終始落ち着いており、恋愛ドラマにありがちな際どいシーンなど一つもない。ただ悔恨と罪悪感、無邪気な慕情が描かれている。

思春期真っ只中な高校生にぴったり。

3つ、平易な言葉

これは2つ目であげた文体とも少々関わってくるがとても平明な言葉で書かれている。そりゃ勿論、出版する際に旧かな遣いを改めたりはしているが、それを差し引いても読みやすい。難しい言葉なんて使われていないし、難解な比喩があるわけでもない。使われててもせいぜい”吝嗇”程度だ。ここで”黠児”だとか”緘黙”だとか使われたらたまったもんじゃない。読む気が失せるだろう。授業で使ってたら。

高校生が読むのにちょうどよいレベルといったら漱石に失礼な気もするが、そうだったのではないか。

 

で、感想だ。

すごくないところがすごい。

あらすじにも書いたがこれは『孤独な明治時代の知識人の内面』を描いた作品であり、一つの時代の終わりを描いた作品だ。単純な面白さ、泣いたり笑ったり怒ったり、とあらゆる手で感情を揺り動かしにくる娯楽作品と比べるとどうしても地味になる。でもそれでいいのだ。そういうのじゃないから。

自分を心理的に解剖する後半の遺書ではその様がよく観れる。前半はでは他人の目=先生を慕う学生の私、からその様を間接的に書く。乃木大将と一緒に殉死せずに次の時代を担う若者の目線、今までの日本とは違う人や思想を抱くであろう人だ。といっても彼も明治時代を生きた人だ。だからこそ先生に近づくし、知りたいと思う。そして単なる『明治時代の孤独な知識人』が彼によって自らの過去を語ろうとするのだ。もし彼がいなかったら先生は過去を胸中に秘めたまま死に、この遺書は生まれなかった。彼がいないまま、この過去を語ろうとすればそれは重みを失う。

あくまで一時代を生きた一人の人としての先生を浮き彫りにしたところがこの『こころ』の凄さだ。そして絢爛豪華な修飾を用いないのが凄さだ。冷静に自分を腑分けする冷徹な視線  そんなものが華やかであるはずもなし。

明治という時代の終わりを『こころ』を通して少しは感じることができた。

が、すでにその価値が認められている作品に自分の感想を持ち込むのは中々難しい。面白いか面白くないで言えば『どちらでもない』が正直なところだ。だけどもうその域を超えたところにこの作品はあるんだよなぁ。

過去を探るための資料であるし、漱石自身に迫る資料でもあるし、時代の写見でもある。そういう意味で言えば僕は十分楽しめたし面白いと思った。本道を外れての意見だと思うが、最近歴史に興味を持つ身としてはそちらからの視点が多くなる。

・明治時代

明治時代は始まりから峻烈なものだった。大政奉還だ。今まで徳川家にあった権力を天皇にお返ししたのだ。そこから近代化の道が始まるが、山あり谷あり一筋縄ではいかない。反発があり、内乱があり、そして戦争だ。

いくら日本のためと頭でわかっていてもそう簡単にはいかない。

悪く言えば200年近く旧態依然とした歩みを進めてきたのだ。いきなり  明治時代は約45年間だが、その半世紀にも満たない間にどれだけ急に変化したか。

そんな激動の時代を、1人の知識人はどう感じどう消化しどう答えを出したか。それがこの『こころ』ではないだろうか。

『こころ』が書かれたのは1914年で、大正に入り2年経つが、それだけの時間が漱石には必要だったのだろう。

 

うーん、やっぱ娯楽作品と純文学って分けて考えるべきか。でも今じゃあその区別もつきにくいし、分ける必要あるのか?と言われれば頭をひねる。

自分の身に落としてみると、馴染み深い地名が多く出てきたところに親しみを感じた。今の本郷駒込神保町あたりか、頻出しているのは。市ヶ谷の牛込あたりにしても自分の生活圏内である。神田明神の前の坂道万世橋に今では東京ドームになっているらしい砲兵工廠。随分といったことのある場所。彼処も出てきた此処も出てきた。雑司が谷にしたって最近近くにいった。そこは素直に楽しかった。小説の中に自分を入れ込むとことができたというか。うーん一度でいいから書生姿を模してみたいな。

 

高校生の時とは違う感想を持った。そりゃそうか。

 

こころ

こころ

 

 

 

 

知能と詩

世界にはほかに誰もいない。

見渡してもほかに誰もいない。

大切なのは彼らだけだった。

残されたのは彼らだけだった。

彼はわたしと一緒にいなければならなかった。

彼女は彼と一緒にいなければならなかった。

わたしはこうしなければならなかった。

わたしは彼を殺したかった。

わたしは泣き出した。

わたしは彼の方を向いた。*1 

正直に言うと忌避感を覚え嫌悪したくなる。それをしてどうする?何がしたい?どこに向かおうとしている?一方で「すごい」と思う。とうとうここまで技術は進歩し、人の手で生まれた知能は将来は自立を始めてしまうのではないか。これが現代であり、夢幻でもなく目の前にある、これからくる時代は『科学』が人の領域に踏み込んでくるだろう。

人工知能(AI)が詩を書いた。

詳細は下のリンク先を見ればわかるが、人工知能に膨大な数の著作権切れの詩をインプットし、それを元に人工知能に詩を作らせた、というのが大意。

原文が英語で、リンク先はそれを訳出したものであり、幾つかある人工知能が作った詩を1つしか訳出していないが、それが冒頭に引用したものだ。

wired.jp

もしAIが作ったものだと知らなかったらどう感じるか?おそらく人が書いたと言われても疑いなく信じた。それが怖くもある。

この研究は『なにができるか?』を探ったもので、『どうしてそれをしたか?』という目的は薄いと思う。AIに詩を書かせてなにがしたいのか私にはよく分からない。人以外の生き物には詩なんてもの必要ないし。食えもしないし、身を守る為に有用でもない。まったくもっていらないものだ。

詩の価値(価値をいう言い方はなんかしっくりこないが)はあくまでその詩が人の内、心から出てきたということにあると思う。詩というものは人から人に渡るものだから。だから私たちは詩に思いを馳せて自らと照らし合わせて、己の血肉とすることができる。

逆に冒頭の詩もAIが書いたことを念頭において詠んでみると面白くもある。AIにとっての世界とは?彼とは?殺したとはどういうことを言っているのか?人以外の人並に知能を持った存在の詩。これは一種のファーストコンタクト。宇宙人と地球人が始めて出会ったようなものだ。

たとえ出自が人であっても人並の知能を持った人ではないもの(人工知能)の扱いはどうする?やべ、このまま適当に論を進めていくとなにをもって人とするか、人とそれ以外の境界線は何かという実に概念を弄ぶアホ議論に話が逸れてしまいそうだ。

ここまで技術は進んでいたか。これが『今』なんだよな。グーグルはどこまで行くつもりなんだ。

 

折角なんでAI著の詩を1つ自分で訳してみようか。

amazing, isn't it?


so, what is it?

it hurts, isnt it?

why would you do that?

"you can do it.

"i can do it.

I can't do it.

"i can do it.

"don't do it.

"i can do it.

i couldn't do it.*2

 

びっくりしてる?

だからなにさ?

痛いんでしょう?

なにがしたいの?

みんなにできて

わたしもできる

やっぱりできずに

それでもやるよ

もうやめて

わたしがやるから

できなかったことを

 

これでいいのか?違うよなぁ、多分。canはなんなんだ…?つーかどこが区切りなのかすら分からん。改行したら”で閉じなくてもいいのか?分からないことだらけ。

この訳信用しないでください。適当にやったんで。

 

 

『私の殺した男』また、殺した男に私は

あらすじ

第一次世界大戦が終わるも戦争中に殺した男のことが忘れられないフランス人のポール。彼の死体の傍らには恋人に宛てた手紙があった。懊悩するポール。人を殺した罪を戦争のせいにすることができず、自らの罪だと常に悔いる。

そしてポールは自分の殺した男の実家のあるドイツに行く。私が殺したと告げるために。

 

片端の足から見える戦争終結記念日のパレード。いきなりどぎつい。両足あれば本来ならば見えないはず。しかしローアングルから下半身だけ映し、片足がなかったため見える賑やかで華やかなパレード。これはすごい画だぞ。

 

そして教会でポールが神父に罪を告白する場面に移る。「私は人を殺しましたけれど殺人者ではありません」唐突な罪の告白にギョッとする神父、しかしよくよく聞けば戦争中のことだ。懺悔室に彼を誘う。「どうしてもあの彼の目が忘れられないのです」神父は言う。「忘れなさい、神はあなたの罪を赦すでしょう」

ええ?忘れていいの?と私思いました。それはポールも同じだったのか、躊躇い、さらに神父につっかかります。そして神父は「あなたは義務を履行したのです。義務だからそんなに苦しまなくてもいいんですよ」この神父何を言っているのだろう?ちょっとよくわかんない。「義務?義務だって?人殺しが義務だって神は言うのか?」ポール逆上。つかみかかる勢いで神父に詰め寄る。

しかしこれはどうなのだろう。字幕では”義務”となっていたけれど、二人はguiltyという言葉でやりとりしていた。それはどういうニュアンスだ?ちょっとわからない。

ポールは殺した男の家に行くべきだろうか?と神父に聞きますがこの神父もう面倒臭がって「はいはい行った方がいいんじゃない」と厄介払いをする体。そしてポールはパリからドイツへ。

この冒頭の教会のシーンは印象深い。戦争が終わるも自分のしたこと、殺人から逃れられない男と、彼に罪はあるにはあるのだが赦しを求めている男にそうとはいえず、(彼だってやりたくてやったわけではないし)戦争中のことだからしょうがない、と諦観の念を抱いているように見える神父。

二人の齟齬を味わう。たとえ戦争中のことでもVS戦争中のことだからしょうがない、の争い。どちらが正しいと一概にいえないから難しい。

 

そしてドイツに行くポール。フランス人とドイツ人、戦争相手同士憎みあっている、戦争が終わるも遺恨は残るドイツの町に(どこでもそうだと思う)フランス人が降り立つことでちょっとした悶着が起こる。

この映画のいいところは、日常と戦争が水と油のように乖離して、一緒にあるけど違和感があるところだと思う。すごい現実っぽい。自分たちが暮らしている範囲では戦争の影は残ってないけど、ふと気づくと憎しみや悲しみが残っている。一見平和な日常と、奥に秘められた負の感情。戦死した息子の部屋、町の肉屋、噂話をするおばさんたち、墓参りをする喪服の婦人、町人が食事をするレストラン。とにかく反発し合ってる印象をすごく受けた。

テーマは重いものだが、その中にルビッチの喜劇センスがちりばめられて、笑えるシーンもある。笑っていいのか?と思う私。

「もう戦争は終わったのよ!」しばしば言われるこのフレーズ。いつまでも戦争という災禍に囚われてはいけない……。戦争が罪深いのは人災だということだ。天災なら人は諦めがつく。誰にもどうすることができないから。しかし人災は違う。幾千もの”もし”を考えてしまう。

ポールは「私が殺した」と言ったのか、言わなかったのか。私が殺した男の許嫁、家族、家に囲まれなかなか言い出せず悩み続けるポール。

ポールは戦争という大きな渦の中でさえも自分のした行為については自分の責任だと思っている。戦争のせいだ、と転嫁することもできるだろうに。真面目な人ほど苦労するのか、でも間違ってはいない。だから辛くもある。

彼が出した答えは……。

そしてポールが来たことによって彼が殺した男、ウォルターの家族も戦争についてもっと考えるようになる。憎しみと悲しみだけが先行していた戦争について。

1932年公開の映画だがこの10年後にはすでに第二次世界大戦が始まっていることを考えると虚しい。

 

 

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『1984年』は何時?

未来世紀ブラジル』を思い出した。それもそのはずでこの映画は1984年版『1984年』だとギリアム監督は言っていたそうだ。この出典はWikipediaだが信用していいだろう。それほどまでに根底にあるテーマ、扱い方はちよっと違うけど…は似通っていて全体は個に優先する全体主義に警鐘を鳴らす映画である。

1984年が出版されたのは1949年、書かれたのが1948年らしい。第二次世界大戦が終結して間もなくである。大きな災禍すぐ後にこんな衝撃的な本を書いたオーウェルはどれだけ先見の明があったのだろう。みな人心地つきたいその時代にどれだけのことを考えていたのだろうと感嘆の念を抱く。

個人個人の尺度ではみな復興への道程を歩み始めたその時だが、国規模ではすでに次の戦争への布石は打たれていてそれがのちに冷戦という形になって現れたのだろうと思う。スターリンソビエト連邦、台頭するアメリカ。ナショナリズムの動き。

政治的には極左翼だったらしい。いまでは左翼というとすぐ悪いイメージが先行してしまい、事実わたしもここに左翼という言葉を書くことにすら抵抗がある現代っ子。作者の人となりを知るためには必要なことであるが。

しかしこのような背景を知ればこの作品をより深く味わうことができる。

 

あらすじ

〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は以前より、完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが……

 

オーウェルが亡くなったのが1950年。この本がでて間もなくである。オーウェルの最後の叫びだったのかなぁ。

全体主義とはone for allの精神の異常なまでに推し進めた形。個人の行動はあらゆる範囲で制限され、監視され、取り締まられる。ビッグ・ブラザーはあなたを見ている。スミスは思考まで、考えることまでは支配できない!と人であることを最後まで捨てない。「君は最後の人間だ」と事実党の幹部に言われさえする。

1984年に随所に登場するのは《二重思考》。これは信じながら信じないという、不可能だと思うようなことをやってのける党の重要な策である。自由とは2+2が4だと言えることである。そして2+2は5にならない。そんなの当たり前だろ、いや《二重思考》にかかれば2+2は5になるのだ。党の手によればそんなことを事実として信じるのだ。そんなに恐ろしいことができてしまう。

党の3大綱領というものがあり  

戦争は平和なり

自由は隷従なり

無知は力なり

がそうである。

 

恐ろしすぎる。

 

スミスが愛するジュリアは、確かに党のことなど気にしない奔放な女だがそれは自分に関係のある範囲のことでしか物事をとらえず、わたしよければすべてよし、というスミスとは少し違う反逆の形。彼女が契機となり、ただ愛し合いたいだけなんだ。こんなことがなぜ許されないのか?

 

本編もさることながら驚いたのが付録であり、言語は思考を規定するという考えのもと党が進める語句の編纂作業”ニュースピーク”と呼ばれる言語についての諸原理だ。言語まで支配したら思考を支配することはより容易になる、と。この付録を削除して本にしたいという申し出にオーウェルは反発し、それだったら本にしてくれないでいい、と言った。

よくここまで……。

加えて驚いたのが解説がトマス・ピンチョンだったこと。本当ですか?

 

現代の必読書ということができるだろう。

フィクションでよかった。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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