常々感想記

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『黒猫白猫』オスメス

マイベストコメディ映画の座を射止めたのはエミール・クストリッツァ監督の『黒猫白猫』。すごくいい映画。見ないのは持ったいない。むしろ見なさい。色々とあほらしくなってくるから。先週の文芸座で観てきた。

一応あらすじ

ジプシーのマトゥコは、自称ダマしの天才。ある日、彼はロシアの密輸船から石油を買うが、見事に騙されて大金を失う。金に困ったマトゥコは、息子のザーレとともに、“ゴッドファーザー”グルガに石油列車強奪の計画を持ちかけ資金援助を乞うが……。 

あらすじなんて気にしないでください。見ているうちにのめりこんできます。最初は少し退屈かもしれないけど(ちょっと寝ちゃったし……)。しかしこのあらすじ、ゴッドファーザー……と思うぼく。 

素晴らしいのは『UNDERGROUND』の時にも言った音楽。極上。またもやサントラを購入する羽目に。そんなにいいのかと疑問を持たれるかもしれないが、無軌道さごった煮でなんでもアリ感がいいんです。

聞く場所を選ぶ音楽ってやっぱあって、これは家にあるちゃちなスピーカーで聴いてもその真の素晴らしさには迫れない。酒宴宴会おてんとさんの日の下でみんな集まって笑って演奏しているのが聞きたい。劇中では大きな木に何人もくくりつけられながら演奏していたりする。阿保。

それは叶わないので映画館で聞けたのは僥倖。でも室内が振動するぐらいの音量で聞きたい。ゲインMAXウーファー全開スピーカーが壊れても構わない……で聞いてみたい。体がウズウズして動き出したくなる音楽。リンク貼る、と思いきやないです。ニコ動にはあるみたい。調べてたらスマホゲームの動画ばっかり出てくる。邪魔。

 とりあえず貼る。

www.nicovideo.jp

 少しでもそのエネルギーを感じれたらいいと思う。

サントラには輸入盤と国内版二つあり、輸入盤を購入。内容に代わりはないみたいだし輸入盤の方が値段高かったけれどジャケットで選んだ。それがこれ。

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 変。

 

 ベタってそれがいいからベタとして残ってるんだよな、なぜかそんなことを思った映画。加えてやっぱり画が面白いのがいい映画なんだよ。『ゴーストハンターズ』に引けを取らない画面だらけ。

話の展開としてはお金欲しさしにした行動がどんどん転がって途方もない事態を引き起こす単純なもの。見せ方がいいとこんなに印象が強烈になるのか。ジャケットに負けず劣らずのおかしさの波状攻撃。井戸での水責め、うんこをガチョウで拭く男、疾走する車椅子、釘を尻で抜く太ったおばさん、動く切り株。

自分の目で見て欲しい映画です。

タイトルの『黒猫白猫』をはじめとして動物も活躍するのでそこにも注目。 どうやって撮ったのか不思議なシーン多い。

DVDしかないみたい。Blu-ray出ないのか。残念ながら文芸座での上映は終わったのでDVDで見るしかない。何回みても笑える映画だと思う。

 

 

 UNDERGROUNDについてはこっち。

cigareyes.hatenablog.jp

 

 

 

 

どこから『私の消滅』するか

中村文則はいつか読もうと思っていた作家。『私の消滅』が本屋の店頭に並んでいるのを見て「早いな」。文学界の六月号に掲載されたばかりだろう。予め決まってたんだろうな。パラパラと単行本をめくった。違いは巻末に参考文献についての一言と内容についての多少の言及があったことか。

 

あらすじ

ある精神科医のある復讐について

これは内容をいうとダメなやつ。そうなんです。ダメなんです。興が削がれます。是非自分で読んでいただきたい。ある精神科医のある復讐についてで勘弁願いたい。

中村文則の文章は暗いね。暗くて冷たい(表紙もわかっているのだろうか不安を抱かせるような印象)。それでいてより暗いとこを探ってるような印象。他の本もそうなのかわからないけれど、固有名詞は登場人物の名前と道具ぐらいで、地名が徹底的に伏せられている。どこであった話かわからない。いつ起こったのかもはっきりわからない。それがこの小説に浮遊感を与えていると思う。それでぼくは安心できる。ぼくのいるこの世界とは隔絶された感じがするから。そんな中に実際にあった犯罪の話を持ってこられると打って変わって居心地がちょっと悪くなるんだけどね。

題名にもある通り『私の消滅』についての話  ダメだこれも言えない?この小説では“私”が何を指すかが重要で、それはどの”私”だ?っていうのが大きな関心事なんだけど……これが限界?

幾つかの手記と手紙によって物語の肝が語られていくが、その扱いが抜群にうまい。すごいなコレ。

 

文字を目で追っていく。その時ぼくは文字、文章、本と決定的に分かたれている。ぼくはここにいて、言葉は向こうだ。けれど、ある瞬間カミソリですっと、静かにぼくが刺されている。ぼくは動揺し、紙面に血が垂れる……。「私は誰だ」

 

詩人になってしまいました、が『私の消滅』はぼくにとってそんな小説でした。すごい面白かった。楽しい小説ではないけれど(純文学かつ究極のミステリーって銘打ってるものが楽しいわけはない)むしろ暗くて惨たらしいです。浸れるか否か、だな。

冒頭を引用します。多分めちゃくちゃ読みたくなると思う。

このページをめくれば、

あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない。

文學界2016年6月号

文學界2016年6月号

 

 

 

私の消滅

私の消滅

 

 

 

 

re:『UNDERGROUND』

以前にもこの映画のことには触れたがその時は見終わった後の気持ちに任せるがまま書いたので感想と言えるほどのものではかった。今週末に文芸座でエミール・クストリッツァ監督作品の上映がある。これは時機を得た。改めて振り返り今週末に臨もうぞ。

 

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・ストーリーについて

と言ってもどこから触れたものかと思案してしまう。そこでこの映画を端的に幾つか言い表してみよう。

 

一人の女を二人の男が取り合う話。

戦争でコメディーの話。

大衆映画の手法を芸術映画の品格を組み合わせた話。

一般向けでない話。

祖国に想いを馳せる話。

監督の抱えこむある種の感情と悲劇が反映された話。

 

あたかも自分で考えたかのように書いているが監督インタビューからも抜粋しました。一つ一つを見ればわかるような気もするが、これ全部同じ映画のことを指してると言ったらちょっと複雑かもしれない。

監督インタビューで言っていた。「万人向けの映画ではない」と。僕もそう思う。だけどいい映画なんだ。これは。

ここでまた監督インタビューから抜粋。

Qこの映画の着想のもとになった戯曲、原作の要素はどのくらい映画に使われているのか?

A実際にはほとんど使われていない。恋する男が、恋敵に戦争が続いていると思い込ませる策略によって、20年地下貯蔵庫に監禁するというアイディアだけだ。

そしてあらすじ

1941年、ナチス・ドイツ占領下のベオグラードを逃れ、敵の目を欺く為、パルチザン(?)として活躍する男のいい加減なアイディアのもと広大な地下空間(アンダーグラウンド)に避難し、戦後も人知れず半世紀の間生活していた人々のエキサイティングな一大群像劇。

大綱はつかめただろうか。こういう映画である。

 

・戦争コメディー

なんて不謹慎な、と日本では言われそうな括り。戦争なんてものを喜劇の対象にするなんて思慮が足りない、とか。そんなこと気にせずに見ましょう。

この映画、戦争を喜劇的に描いているが、それは戦争という状況のなか生きてゆく人間が笑劇的なのであって戦争そのもの自体を笑えるものとして扱っているわけではない。必要以上に悲劇的にすることを望まなかったのだろう。今の時代戦争=陰惨破局悲劇悪徳、という図式が出来上がっている。その通りなのだが、戦争している時にどれだけそのことが考えられていたか、という点について戦争当時から見ると後世に当たる現代では認識不足な気がする。「実際自分がその渦中にいたらどうなのだろう」と思わなくもない。

この映画、戦争という状況のなか強かに生きてゆく人間がいる。その姿はズルくて自分のことばかり考えている賢しいサルみたい。でもありうる。どんな状況でも人は生きてゆく、と思わされる。笑って酒飲んで喜んで踊って怒って殴る。当たり前のことはいつでも起こる、と。

 

・自然とエナジー

「芸術作品にとって最大の敵は自然だ」これも監督言ってました。三万平方メートルに及ぶセットを作り上げてこの映画は取られた。自然さを避けること、自然に見えることが大事だと。

本物の建材はまったく使われておらず(費用のこともあるし)全て技術でそう見せている。どれだけの技が駆使されているのだろうか。写っている場面に関して違和感を感じることはなかった。その舞台美術に圧倒される。

「どんなに強烈な印象も映像にすれば薄れる」そう語る監督は舞台に力を入れ、道具に力を入れ、衣装に力を入れた。言葉が足りないが、すごいとしか出てこない。コメディー的な装飾もあって、場面ごとにきちんと使い分けている。

この映画で僕が一番好きな舞台は船だ。序盤に出てくる船、(一方的な)結婚パーティーの場。狭いデッキに楽団並べ、酒盛りし、そんなところにナチスが襲ってきて船内に立て籠もる。ここで二人の男と一人の女のドラマが繰り広げられる。服装のちぐはぐさ、船のありあわせの結婚祝賀装飾。いい。

画面から溢れ出るエナジーについて。美術もさることながらこれは音楽の功績が大きいと思う。粗雑でがさつで煩くて荒々しい音楽だが、それが味わい深い。映画を見終わった後すぐにサントラを購入したぐらいだ。これは民族音楽、なのだろう。戦争中に宴の場でかき鳴らす音楽には力があった。音楽のなかに文化が聞こえる。

 

・祖国の有無

ぼくはユーゴスラヴィアについて詳しくない。しかし自分が生まれた国が今はなく、違う名前になり、かつての国土もバラバラになっていたらどういう気持ちになるのか。直接的に描いていないが、この映画のバックホーンにはそれがある。この映画実はスロベニアクロアチアでは上映禁止らしい。どちらの国も旧ユーゴスラヴィア領である。『コントロールされることへの反抗』を描いた作品だからだろうか。

 

・ラストシーン

淀川長治さんの言葉を借ります。

祖国、旧ユーゴの苦痛から解放されてゆくこの映画のラスト・シーンの素晴らしさには涙で画面がくもってしまう。

ラストシーンの素晴らしさは僕も感じた。もはや僕が言うまでもないがそのくらいすごいということ。当たり前だがそこだけ見ても感動はしない。あくまで映画の中のワンシーンだから映画を見ていないとその感動は薄れる。3時間弱の映画でそこに至るまで少々長いがその価値はある。これだけ印象に残って、感動するラストシーンの映画はそうそうない。映画の最後っていうのはこうあるべきなんだ、と思ってしまうほど。しかしBlu-rayの背面になぜ本編時間が”約150分”と書かれているのかわからない。初めて見た時は2時間半たっても終わらず「いつ終わるんだ?」。映画に没入しきれずちょっと残念だった。

最後のシーンに出てくる島はユーゴスラヴィアを形取ったもの。暗喩。こういう渋い仕事をする監督大好き。「許そう、しかし忘れないぞ」というセリフがラストシーンにあり、これがコーヒーに入れたミルクのように、最初は意表を突かれ馴染まないが、コーヒーとミルクが混ざり合ってカフェオレになるように、すぐ得心し、そのセリフが背負うものを思うとまさにこのセリフの為にこの映画があったのではないか、と思うほどの融和。でもこのセリフも引用。やってくれるなぁ。この監督の他作品『パパは、出張中!』からだそうだ。自分の映画で遊んでる。

 

エミール・クストリッツァ監督について

Blu-ray二枚組の二枚目。約一時間にわたる監督インタビューが収録されている。刺激的な話も多く、このインタビューを踏まえて映画を再見すると見えてなかったものが見えてきそうだ。思想的な話やメディアについて映画産業についての話が多く、映画を作る際の姿勢が窺い知れる。映画に関連して印象に残った発言を幾つか(適宜表現変わっているところあり)。

「芸術映画で垢抜けていない監督の作品が評価されたことは嬉しい」カンヌで賞を取った時に言ったこと。「映画を撮り終えた後、楽しかったというスタッフが居るがそれは嘘だ。映画を作り上げるには犠性を払わなければならない」楽しいだけでは映画は作れないってこと。一つの作品を作るためには多大なエネルギーが必要で自分で自分を発奮しないといけない……。「過度に独創的でありたいと思わない。わたしを構成する全てをわたしは表現したい」影響を受けた作品について、引用することについて。「映画には二種類ある。大きな興業収入をだして見た後に忘れ去られる映画とそうでない映画だ。この映画は後者であると自負している」芸術映画についてのこだわりと、ハリウッド映画に対する嫌悪感が滲みでている。

まだまだあります。とても興味深く面白いインタビューでした。政治について、メディアについてと他にもまだまだ語っています。

映画についてこだわりがある。好きな監督にルノワール、ルビッチ、フェリーニタルコフスキー等々を挙げる。本当に映画好きなんですね……。

 

よし、これで今週末に臨めるぜ。

 

 

アンダーグラウンド Blu-ray

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『ロリータ』コンプレックス

スタンリー・キューブリック監督の『ロリータ』は原作者ナボコフが脚本を書いたもののその2割程度しか使っておらずナボコフも不満を漏らしていたという(書いた脚本がそのままだったら7時間にも及ぶってなったら仕方ない気もする)。十分いい映画だと思った私(5、6年前に見たきりだが)は本も読もうと買ったはいいものの第一部だけ読んで放置していた。なんであの時放置したのかわからないほどに面白く、ぜひ原書で読みたい(できるできないはおいといて)。

 

あらすじ

「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」ハンバートは少女への倒錯した恋を抱くもひた隠しにして暮らしていた。しかしそんな彼の前に命取りの悪魔が現れる。彼の魂の真空を美しさあどけなさ情欲狂気で満たす悪魔。ロ・リー・タ……

 

ナボコフについて

『ロリータ』を書くまでは他にも職を持っていた。この『ロリータ』の成功を機に作家に専念する。といっても出版にあたってアメリカの出版社は当初出版を拒否し、最初に本として世に出たのはヨーロッパのフランスでのことだった。

ロシアで生まれ革命を機に亡命。1899年に生まれ1919年に亡命とあるから19、20歳で祖国から離れたことに。ヨーロッパを転々し、そしてアメリカで書いたこの『ロリータ』は英語で書かれた。自分の母語でない言語で小説が書けるなんて凄すぎる……。

多弁で自分の考えを表すのにためらいはないようだ。そうでもなきゃ小説家になんてなれない?『ロリータと題する書物について』という著者自ら小説について語るあとがきでは「私は霊感と組合わせの相互作用で作品を書く」と言う。意図なんてものはあるようでなく、とりあえず書き始めたら書き終える意図しかないと。著作が評価されることにあまり関心がないのだろうか?自分が書き上げた作品自体に対しては作品そのものが自身の慰めになる存在である。「ロリータは私にとって喜びに満ちた存在である」とナボコフは言う(書き上げてから一度も読んでいないと言っているが)。

自分の意図通りに読んでくれれば嬉しいが、読んでくれなくとも気にかけない。

こんなことを言う人ってたいがい寂しがり屋な気がする。

 

ロリコン

少女に性的欲求を持つこと(私の認識ではそう)を今では”ロリータコンプレックス”略してロリコンという。その語源となった本書だが、今の言葉の意味からは離れた内容だった。確かに少女に情欲を抱くこと、が作品の中で大きく扱われている。でもそれは性の対象としてだけではなくニンフェット、とハンバートが少女のことを呼んでいるように、妖精のような触れるようで触れない、決して届かないもに対する羨望と憧憬そして禁忌が書かれている。そしてそれを犯した自分に対する後悔。そして後悔をしつつ感じている倒錯した喜び。

ハンバートのロリータに対する愛情も徐々に性質が変わってゆく。10歳から14歳の間がニンフェットとして顕現できる年齢であると本人が言うように、成長したもはや少女でない彼女には自分が愛した少女の名残しか見つけることができない。かつて愛したという理由で愛し続け、彼女のために殺人まで犯すのだが、ロリータと出会った時と比べるとそこに熱はない。火が燃え尽きる寸前、最後に一瞬大きく燃え上がるようなもの。

彼の恋の対象のロリータは彼に人生を狂わされた。本人がそのことを重く受け止めていないことが哀しい。みすぼらしく、腹を膨らませ、お金をたかるロリータ。ああ、無垢で残酷だったニンフェットはどこに行ったのだろう!

ハンバートは中年男、しかし自分を美男子だと思っている。事実そのようだ。そのくせに少女大好き!となったらそりゃ世間の目は冷たい。彼が少女を愛するようになったのは幼少期のある出来事が遠因と述べる。その際に引用されるのがポーの『アナベル・リー』だ。少女の象徴としてこの詩が用いられる。

 

・筋の面白さ

ただ単に少女に恋する男の話だったらこんなに世界で話題にはならなかっただろう。あらすじでは書かなかったが起承転結は意外なほどしっかりしていて、ドラマがある。

ハンバートはロリータと出会い、ロリータと離れ、ロリータと再会し、ロリータのために人を殺す。いってしまえばこれだけの小説であり、これだけの小説だ。序の時点でハンバートが犯罪に走り、死んでいることが明かされる。なぜそうなったのか、何がそうさせたのか、を解き明かしていくミステリでもあるのだ。

知るために私たちはこの『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』を読む。その内容は衝撃的で嫌悪してしまう。出版拒否されたことからも当時1955年当時ではこの内容はあまりに赤裸々で露悪的。しかし魅せられてしまう。

 

・インテリ 

ハンバートの告白録が、このロリータだ。それにしたってなんて奥深い。『アナベル・リー』に始まる様々な作品からの引用、オマージュがおびただしい。そして辻褄の合わない記述。解き明かすのが楽しい(おい、お前解き明かしてないだろ。脚注読んでその気になってるんじゃねえ)。その結果、ある説ではこの告白録の最後はハンバートが作り上げた虚構の出来事だと言うものまであるらしい。面白い。面白いぞ。何度読んでも新しい発見がありそうだ。ここまで素晴らしい本だと思っていなかった。

その書き方一つとっても目を何度もみはる。仰々しくて絢爛な比喩や修飾はハンバートの心情を伝えてくれる。映画的であり小説的だと思う。

そしてそれから、後悔、涙を流して償う苦い甘さ、卑屈な愛、そして希望のない官能的和解。ビロードのような夜に、ミラーナ・モーテルで(ミラーナ!)、爪先が長い足の黄ばんだ裏に口づけて、私は自分を生贄としてさしだした。しかしすべてはむだなことだった。私たちは二人とも運命づけられていたのだ。そして私は、まもなく新たなる受難の周期に入ることになる。

これはハンバートがロリータを初めて殴ったシーンの後に挟まれる文章。この調子が基本的に続く。気障ったらしいしまどろっこしいがそれがいい。

それにこの小説の書き出し(ハンバートの告白録の)はすごいぞ。

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

強烈で鮮烈で衝撃的で異常。狂ってるんじゃないのか、と疑念を抱かせるほど。

 

映画版の『ロリータ』(2作あるがやっぱキューブリック版)ももう一度見よう。この映画版はロリータが小説より少し大人っぽくなっていて、映画ということもあり小説ではあった性愛描写もなく、またこれこそ映画ならではのモノローグから始まり過去回想に入るその冒頭の流れと最後に訪れるカタルシスまでの持って行き方がすごい。

さて、M(マゾヒズム)とL(ロリータコンプレックス)は読み終わったから次はS(サディズム)いってみよう。

 

 

ロリータ (新潮文庫)

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ロリータ [Blu-ray]

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『重力の虹』HAHAHA!理解不能

 わっけわかんねぇ。

 

ささやかではあるがそれなりに本を読んできた身としては、たいていの本は読めると思っていたけれど今回そのチンケな自負をぶっ壊していただきました。ありがとうございます。世の中は広いね。あらすじをかけるほどに読めず内容も理解できず。表面的な書いてあることはわかるよ?わかるけどそれが何を言っているのかさっぱりんこ。

第1部を一回読んであまりにもわからなかったのでもう一回第1部を読んでそれでもわからなかったので「ああ、これはそういう本なんだな」と諦めてかなり時間かけて読みました。三ヶ月ぐらい?

そんな『読んでも意味がわからない小説』だったので内容について言及することができません。だからなぜ読んでも意味がわからないかについて書こうと思います。

 

・圧倒的な知識量

まず挙げられるのがコレですね。脚注の数がおびただしいことこの上ない。(私が読んだのは新潮社刊行佐藤良明訳のトマス・ピンチョンコレクション)脚注を読んでも正確にその意味を汲み取るのは難しいでしょう。

重力の虹』の舞台は第二次世界大戦のヨーロッパ(流石にこれくらいはわかる)で、その当時の流行や軍事行動、関連して工学知識をもふんだんに詰め込んだまさに百科事典的な本でした。ロケットが話の根幹にかかわってくるので特にロケット工学の話が凄まじい。また本来俗っぽいポルノやギャグがここまで多用されると頭が混乱してくる。宗教の話や意識についての哲学的な話。もうどんな話が出てきても驚かなくなります。

当時と70年近い隔たりがあるのでまたその知識が得難い。いや、分かりにくいといったほうが適切か。(Gravity’s Rainbow Companionという重力の虹についての注解書を始めとする数々の研究がその凄まじさを物語る。http://pynchonwiki.comこんなサイトもあるぐらいだしサイトを取ってもこれ一つでもない。)しかしその分脚注を読まずにわかった時は嬉しかった。まあホルスト・ヴェッセルぐらいだったが。

映画ネタ俳優ネタもめちゃくちゃ多くて登場人物をよく俳優で例えるのだがその当人を知らない、ので意味がわからない。もっと有名人で例えてくれと思ったが、昔有名だが今無名なんて人ざらにいるもんな。

また原語は英語なのでがその英語を生かしたダジャレやスラングが多用されている。正直日本語では味わいつくせないのではないか、と思った。

 

・あっちこっちいく物語

軸はタイロン・スロースロップという人物の話……のはずです。すみません、これすら確信を持って言えないです。あっちにいって、こっちにいって、あれ?今何の話をしているの?あれ?コイツ誰だっけ?

何回あったか数え切れません。もう途中からは一回読んでわかるような小説ではないと諦めていたのでわからないものはわからないまま読んでしまいました。

日時と場所がはっきりと言及されない(わかろうとすればわかる……っぽい)のでこの出来事はさっきより前か?後か?それとも別の場所の話か?

?だらけの物語。文はわかるけど文章としてはわからない。それにこの出来事が現実という保証は全くない。誰かの妄想ということがしばしばあり、その妄想にかなり振り回される。みんな妄想しすぎ。

断片的すぎるし、一貫性がない。

およそ1400ページ数ある本だったが、数百ページ前の内容が突然言及されることも多々あり「そんなの覚えてねぇよ!」という私の嘆きが自室に何度も響いた。

 

 

・今誰の視点なの?

これも相当ひどい。気が付いたら切り替わってる(ぽい)。段落が切り替わることもなく唐突に入れ替わることもしばしば。そもそも懇切丁寧に誰々が思った  などと書かない。場所と内容で判断するしかないのだが、それが先ほど挙げた圧倒的な知識量を必要ともするのでさっぱりです。そもそも主人公(のはずの)スロースロップの自我自体どんどん散らばっていっている(解説によると)ので、視点なんて考えるだけ無駄なのかもしれない。

つまりだよ、読ませる気がないんだよ!と思ってしまった私。

そもそも全米図書賞を受賞した今作だが、一体何人がこの本の内容を理解したが疑問に思う。「なんだかわかんないけどすごそうだから賞あげよう」っていう人が絶対いたね!間違いないね!

 

読んでも意味がわからないので何度寝落ちしたことか……。今までで一番寝落ちした本だ。多少とも読んだことのある人ならわかると思うけど、本当にわからない小説だった。だいたい何でキングコングの話のすぐ後にフリーメイソンの話が出て来るんだ。かと思えばすぐにファックしようとするし。電球の物語が始まるし。気球に乗って逃げるし。読む人は相当の覚悟をしましょう。

時折笑えるシーンあります。クスクスとガハハと。そのー難しいことは難しいですがインテリゲンチャな小説ではないです。結果として知識量を要求されますが、日本の古典並みに下ネタが多いし、よく叫ぶし。GAHHHHHHHとかYAAAGGHHHHHとか。

こんな本でも何回も繰り返し読めばわかるようになってくるのかな。

けど読んでもわからない本っていうのも面白いもんだね。「わからないことが面白い」という感覚というか。そんな本を読むのはかなりキツイけど。ピンチョンの多少の意地の悪さと「読めるもんなら読んでみろ」と不敵に笑ってる姿を勝手に想像して、またもう一回読むエネルギーとしたいと思います。今度ね!今度!HAHAHAHAHA!

 

 

 

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

 

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

『オービタル・クラウド』個人的な話

まず陳謝。「三冠達成と言いはするが其の実我が心胆を律動させること叶わぬだろう」続けて曰く「荒筋を読んでも引き込まれぬ。良いものは荒筋の時点で魅力的なもの」さらに曰く「宇宙が舞台、しかし月よりも遠くに行かぬさいえんすふぃくしょんに目新しいものは見つからぬだろう」

ごめんなさい。生意気言ってすみませんでした。

おもしろかったです。ヘッドバンキングしながら読みました。ありがとうございます。

『オービタル・クラウド』というこの作品〈第35回日本SF大賞〉〈第46回星雲賞日本長編部門〉〈ベストSF2014国内編〉の三つにおいててっぺん獲っています。前々から気になっていた作品でした。「こんなにいっぱい賞とってるやがる昰……」なのに冒頭のようなツンデレみたいな態度をなぜかとっていて今の今まで読んでいませんでした。はい私捻くれ者です。

ある日、本屋に行くとこの『オービタル・クラウド』がありました。以前なら本棚の前で少し逡巡したのち他の本を手に取っていたでしょう。しかし今、目の前には“著者サイン本”がありました。少し逡巡します。ここまでは以前と同じですが、その後カゴに入れました。「コリャしょうがねぇよ、おいらの負けさ……」

 

サインイェーイ。今自分が手にした本を作者も手にしたんだなぁ。なんか不思議。 

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あらすじ

2015年イランのテヘランでは1人の研究者が紙とペンを武器に研究を続けている。そして今一つの気球を空に放った。

2020年日本。流れ星発生予測サイトを運営する木村和海は先日打ち上げられたサフィール3のロケットブースターの2段目の高度が何故か上昇していることに気づく。

アメリカのケープ・カナベラルからは民間宇宙ツアーPRプロジェクトが進められそのためのロケットが打ち上げられた。

同じくアメリカのシアトルでは日本人と朝鮮人が穏やかではない会話している。

宇宙規模のテロが今始まろうとしていた…… 

 

群像劇の醍醐味は点と点が線になり、その線が一つの絵を描くところ。今回は絵ではなく、糸になったというべきか。いろいろな人たちが登場します。場所もあっちにいってこっちにいって、と主人公がなかなか主だって出てこないので(主人公なのにね)少し焦れったくなるかもしれない。しかしその分動き始めた時の疾走感は心地よく、また没頭できる。うひょーいってね。最終的に一つのお話に収斂させる手際は圧巻の一言。思わずまだ読んでいないのに次のページを繰りそうになり、その度に自分の頬を打って制止します。「ダメよ!ダメダメ!」

さて『オービタル・クラウド』はどんな小説なのか。

宇宙でのテロを趣味がきっかけ(半分仕事)で知った木村和海という普通の人がそのテロを阻止する話です。

「オイオイ普通の人がそんなことできるわけないだろう?」その通り。しかし今は世界中繋がりまくってる時代です。電波ビュンビュンです。和海も一人で阻止するわけではなく、地球上のあらゆる場所にいる人から手助けしてもらいます。ある意味今だから書けたSFといえるでしょう。

一昔前ならテロを阻止する主人公なんていうのは超人でなければなりませんでした。ジェームズ・ボンドしかりイーサン・ホークしかり、はたまたジョン・マクレーン(こいつは違うか?)しかり。超人でなければそんなことできませんでした。今は?遠い場所にいても連絡が即時に取り合えるような世の中ではスーパーマンは不要です。必要なのはスペシャリスト。一点突破です。

お互いに足りないところを補いながら作戦を進めていく。これが現代のアクション大作です。この『オービタル・クラウド』もその例に洩れず、スペシャリスト達が自分の矜持をかけてテロ阻止に取り組みます。

世界とか国とかそんな大義の為ではなく、各々が己の誇りの為に立ち上がるのです。うーん泥臭くていいなぁ。個人的にはダレル軍曹が好きです。

 

とても現実味がたっぷりなSFです。そしてこの『オービタル・クラウド』嘘上手なSFです。これあるかも、と信じてしまいそうです。こういう本を読む時に私は”どこで嘘をついているのか”見極めようとします。(性格悪いなぁ……)今回のこの本では、スペース・テザー(テロの根幹を占める所謂“兵器”)は実際には飛ばせない!と見ました。

ローレンツ力という物理の初歩的な原理の応用でこのスペース・テザーは自在に動くのですが、単純すぎるものほど嘘がつきやすい。なんやかんやで飛ばす為には数々の障害(小説には描かれていないやつ)があるのではないか?と推測しました。機会があったらそれが本当かどうか調べてみよう。

ラズパイもあそこまでの仕事が本当にできるのかな?それはできるのか。

そしてもう一つこの小説で好きなところは、欧米人が主役ではないところです。

主人公は日本人、テロを企てるのも日本人(北朝鮮サポート)、そのテロの根幹技術を発案したのはイラン人。アレ?世界規模のテロなのに?勿論アメリカという大国が物語の上で大きな役割を果たしていることは間違いありません。でもSFというジャンルで、世界規模の小説で、これをやってくれた作者に対し拍手の嵐を送りたいです。なんか嬉しいです。よっ太洋屋!

この本を読んだ私はとりあえず自分のスマートフォンにロックをかけました。セキュリティって大事ね!

 

 

 

『こころ』時代性

都合三度目か、この本を読むのは。中学生で1回高校生で1回そして今大学生で1回。その時その時で感想は違うけれど、今回で始めて「やるな……」と思った。(何様だ)うーん、自分の未熟さを思い知るばかり。特に高校生の頃はこの本(てわけでもないが)バカにしていたからな。

 

・中学生の時

正直何を思ったか覚えていない。しかし夏目漱石作品で初めて読んだのがこの『こころ』だったはず。しかし印象が残っていないということは大したことは何も思わなかったし考えなかったのだろう。

単純に「遺書長い」程度だったと思われる。

 

・高校生の時

これが少々逸話というほどでもないがちょっとした話がある、といってもことは単純明快。『こころ』が学校の授業で扱われていたのだ。生徒全員『こころ』(新潮社の真っ白なカバーもの)を持っていた。学校で購入した本を生徒に配布、教科書として授業を進めていた。

現代文の授業で「はい◯ページ開いて」と皆『こころ』を取り出す。当時ぼくはそれが気に食わなかった。「小説の読み方は強制されるべきものではない、とくに文学作品においては絶対にだ……!」今ではそんなこと思っていない。いや、少しは思っているか。なんにせよ、そんな青臭く若々しい思いを頭の中に飼っていたぼくは当然授業を真面目に受けません。適当にやりすごし、テキトーに読んだ。「俺は俺の読み方をするぜ」←阿保

態度は感想にも現れる。「なんだよ先生バカかよ」「Kもなんで自殺すんだよ、バカかよ」「奥さんかわいそうだなオイ」「遺書長すぎんだよ。こんなもん郵便で送れんのか?」酷いものばかり。

しかし高校生のぼくはこれでいいと疑っていなかったのだからそれも吃驚。授業で扱っているからといって読み方を強制しているわけではないし、ただガイドラインを示しているだけってこと……今ではそう多少大人じみた考えを持てる。それが良いか悪かは別にして。でもやっぱいやだな!

 

と読み返すまでは『こころ』については散々な意見しかもっていない。

じゃ今回はどうなのさ。

 

あらすじ

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品

 

まずどうして高校でこれを教材としたのか、その理由を測ってみる。

1つ、著者が日本文学史上において錚々な名を残していること。

夏目漱石、と聞けば日本人は誰でも知っているだろう。かつては千円札の肖像にも使われていたのだから。彼が残した著作は今もなお多くの人に読まれ、影響を与え続けていると思われる。最近では『門』が朝日新聞紙上で再連載されていることからもその存在の大きさが窺い知れるものである。

他にも『三四郎』『坊ちゃん』『吾輩は猫である』という代表作は今でも名高い。これは文学史を勉強する上でもとっかかりになるので、教育現場で扱うのにふさわしかったのではないか。また日本人だったら夏目漱石の1つぐらい読んでいて欲しかったのだろう教師たちは。

2つ、三角関係という内容と高校生という年齢

授業で扱うから内容が教育観点からいって一応ふさわしくなければならない。かといって退屈な内容だったら生徒は読まない。その点、この『こころ』はなかなかふさわしい。端的に言えば三角関係を扱っており、そこそこ楽しめもするが、その表現と文体は終始落ち着いており、恋愛ドラマにありがちな際どいシーンなど一つもない。ただ悔恨と罪悪感、無邪気な慕情が描かれている。

思春期真っ只中な高校生にぴったり。

3つ、平易な言葉

これは2つ目であげた文体とも少々関わってくるがとても平明な言葉で書かれている。そりゃ勿論、出版する際に旧かな遣いを改めたりはしているが、それを差し引いても読みやすい。難しい言葉なんて使われていないし、難解な比喩があるわけでもない。使われててもせいぜい”吝嗇”程度だ。ここで”黠児”だとか”緘黙”だとか使われたらたまったもんじゃない。読む気が失せるだろう。授業で使ってたら。

高校生が読むのにちょうどよいレベルといったら漱石に失礼な気もするが、そうだったのではないか。

 

で、感想だ。

すごくないところがすごい。

あらすじにも書いたがこれは『孤独な明治時代の知識人の内面』を描いた作品であり、一つの時代の終わりを描いた作品だ。単純な面白さ、泣いたり笑ったり怒ったり、とあらゆる手で感情を揺り動かしにくる娯楽作品と比べるとどうしても地味になる。でもそれでいいのだ。そういうのじゃないから。

自分を心理的に解剖する後半の遺書ではその様がよく観れる。前半はでは他人の目=先生を慕う学生の私、からその様を間接的に書く。乃木大将と一緒に殉死せずに次の時代を担う若者の目線、今までの日本とは違う人や思想を抱くであろう人だ。といっても彼も明治時代を生きた人だ。だからこそ先生に近づくし、知りたいと思う。そして単なる『明治時代の孤独な知識人』が彼によって自らの過去を語ろうとするのだ。もし彼がいなかったら先生は過去を胸中に秘めたまま死に、この遺書は生まれなかった。彼がいないまま、この過去を語ろうとすればそれは重みを失う。

あくまで一時代を生きた一人の人としての先生を浮き彫りにしたところがこの『こころ』の凄さだ。そして絢爛豪華な修飾を用いないのが凄さだ。冷静に自分を腑分けする冷徹な視線  そんなものが華やかであるはずもなし。

明治という時代の終わりを『こころ』を通して少しは感じることができた。

が、すでにその価値が認められている作品に自分の感想を持ち込むのは中々難しい。面白いか面白くないで言えば『どちらでもない』が正直なところだ。だけどもうその域を超えたところにこの作品はあるんだよなぁ。

過去を探るための資料であるし、漱石自身に迫る資料でもあるし、時代の写見でもある。そういう意味で言えば僕は十分楽しめたし面白いと思った。本道を外れての意見だと思うが、最近歴史に興味を持つ身としてはそちらからの視点が多くなる。

・明治時代

明治時代は始まりから峻烈なものだった。大政奉還だ。今まで徳川家にあった権力を天皇にお返ししたのだ。そこから近代化の道が始まるが、山あり谷あり一筋縄ではいかない。反発があり、内乱があり、そして戦争だ。

いくら日本のためと頭でわかっていてもそう簡単にはいかない。

悪く言えば200年近く旧態依然とした歩みを進めてきたのだ。いきなり  明治時代は約45年間だが、その半世紀にも満たない間にどれだけ急に変化したか。

そんな激動の時代を、1人の知識人はどう感じどう消化しどう答えを出したか。それがこの『こころ』ではないだろうか。

『こころ』が書かれたのは1914年で、大正に入り2年経つが、それだけの時間が漱石には必要だったのだろう。

 

うーん、やっぱ娯楽作品と純文学って分けて考えるべきか。でも今じゃあその区別もつきにくいし、分ける必要あるのか?と言われれば頭をひねる。

自分の身に落としてみると、馴染み深い地名が多く出てきたところに親しみを感じた。今の本郷駒込神保町あたりか、頻出しているのは。市ヶ谷の牛込あたりにしても自分の生活圏内である。神田明神の前の坂道万世橋に今では東京ドームになっているらしい砲兵工廠。随分といったことのある場所。彼処も出てきた此処も出てきた。雑司が谷にしたって最近近くにいった。そこは素直に楽しかった。小説の中に自分を入れ込むとことができたというか。うーん一度でいいから書生姿を模してみたいな。

 

高校生の時とは違う感想を持った。そりゃそうか。

 

こころ

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