ハーモニー
個を差し出して、得られた代替物は平穏と健康
「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できる……」
「わたしは、まっぴらよ」*1
ぼくにSFとは、を教えてくれた本。といってもSFにも多種多様なSFがあるのだけれどこれがその多種多様なSFへの出会いのきっかけをぼくにくれた本。
でも原点はここに戻ってくる。
あらすじ
21世紀後半、<大災禍>と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福利厚生社会を築き上げていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する”ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――それから13年。死ねなかった少女霧慧トァンは、世界を覆う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る――*2
読めば読むほど伊藤計劃の意地悪さ、よく彼は「やたらと映画や本に詳しい先輩のような人だった」と言われているが、その先輩が後輩に時折するような意地悪な遊び心が感じられる。
それはぼくが伊藤計劃の本を読み漁ったり、また彼について書かれた文を読んだりして、今まで見過ごしていた部分が目に付くようになったからなのだろう。
このハーモニーの世界はみーんな優しい。
この世界には人種差別や性差別、階級差別、ナショナリズムに基づいた差別などがない。国なんてものもないし。それにこの世界は他人に優しい世界だから。この他人に優しい、というものが厄介な代物。誰に強制されたわけでもなく、社会に義務付けられたわけでもない。ただ「あなたという存在はみんなのものですよ」という意識がそうさせる。
わたしがみんなのものってどういうこと。
この問がこの物語の根幹を占め、結末へと導く。
人は<大災禍>という野放図な戦争とも呼び難い、何か、でその数を大きく減らした。(ここの辺りが気になった人は前著『虐殺器官』を読もう。この『ハーモニー』は『虐殺器官』の後の世という位置づけ。)数を減らした人類は自らの体を大事にする。そしてそれが行き過ぎると、「このカラダはみんなのものだから自分勝手に傷つけてはいけない」になる。それを可能とした技術が”医療分子(Watch Me)というナノマシンを体内に巡らせることによって身体の恒常的健康監視をし、病気や異常の根絶を可能ならしめたもの”である。
まずこの世界を作り上げた手腕に脱帽。ロジックを考えるのは好き、というのは作者本人の言葉だが、それにしたってこれは凄い。
SFってこんなことできるんだ、とぼくに思い知らせてくれた。
この本を読むまでは、宇宙人とか時間旅行とかロボットとかSF小説っていうのは突拍子もない小説という観念しかなかった。しかしこれはテクノロジーと社会を論理的に描いている。いままでにない社会の在り方を提案し、そこでは人はどうなるのか、どうなってしまうのか。そんなことを書くことができるんだ、と。
アニメとか映画だとやたらSF作品見てたくせにそのことを意識してなかったぼくはそれまで十分にその作品たちを楽しめていなかった。そんなぼくの目を開かせてくれた。だからぼくにとってこの作品は特別なのだ。
この物語を象徴する言葉は清潔、だと思う。
読んでいて感じるのは希薄さ。徹底してリアリティがない。物語はフィクションだからこそ現実感が大事でありそれがなければ物語はただの独りよがりの妄想に陥ってしまう。しかしこの物語ではそのリアリティがないことが、リアリティを与えている。
先程はこの世界を構築するロジカルな思考が素晴らしいと言っておきながら、今度はリアリティがないという。相反している主張をしている?いや、だからこそこの物語はとんでもない。
論理を組み立てることと、リアリティがあることは別のこと。
三段論法を例で挙げればわかるだろう。
ぼくは男だ。
キリストは男だ。
つまりぼくはキリストだ。
明らかに破綻しているが、しかし論理的には一見正しいように思える。ここでは合ってるかどうかは問題ではない。それらしく思えるかどうか、が重要。このぼくたちにそれらしく思い込ませる力が強いものを、よく引き込まれるとか没頭するとか評する。それがこの物語で、ロジックで行われていることだ。いやしかしそれがもの凄い。
そして、この論理で構築された世界は霧慧トァンという人物の目を通して語られる。トァンはこの世界を疎んでいるし居心地が悪いと感じている。この世界、つまり医療福祉が高度に発展した、「みんなは一人の為に、一人はみんなのために精神」に満ち溢れる世界だ。ここはわたしのいる場所ではない、そう感じている人物の目を通して語られる物語がどうしてリアリティがあるものになるだろうか。リアリティがないことでこの物語はリアリティを生んでいる。トァンは世界から距離を置いているのだ。それは少しシニカルで淋しい。
御冷ミァハという少女にトァンが惹かれたのはだからだろう。互いに居場所がない、と思っていたから、この優しさに満ちた世界に。
清潔なのは言葉も。?や!は一度も使われない。(確かにそうだと思うけどちょいと自信ナシ)清潔、というのは均一につながるものが有ると思う。そしてグロデスクで陰惨な話をしているときでもそうだ。感情の高ぶりや慟哭などとは縁がない。いや、確かにその事象に対して心動くところはあるのだろうけど、感じにくい。
言葉、論理、リアリティの希薄さ。
だからこの物語はとてもとても清潔だ。
だからこそ恐くなる。
わたしという個、を差し出し迎える終局は……
登場する人物も魅力的な人物が多い。
冴木ケイタというこの社会を産む一因となった人物が「(前略)若い連中はよくもまあ、自分を律していられるもんだ」と言う。トァンは「なんといっても、女の子には魔法が使えるんです(後略)」と言う。トァンをウーヴェは「お前、本当に自分のことしか考えてない女なんだな」と言う。ミァハは「ただの人間には興味がないの」と言う。
ロジカルな世界のエモーションな部分だ。
伊藤計劃は悪戯仕掛けてにやにやしてるんだろうな。
この感想を書く上でぼくは1つ嘘をついたが、その理由は本を読んだ人にはわかると思う。まだ読んだことない人の為についた嘘なので容赦して。