『死の家の記録』人間観察記
introduction
ドストエフスキーが実体験を元に書いた獄中記。監獄を”死の家”と呼ぶ……しかしあまりそうは感じなかった?いや、でもハッとさせられるのである。
plot summary
妻殺しの罪で服役していたゴリャンチコフの『死の家の情景集』という手記。
author
ドストエフスキーです。もはや作品はあれこれを書いていて、こういう作品を書いているなどどいう注釈は不要でしょう。
彼はペトラシェフスキー事件に関わって逮捕され、1850年から1854年までの四年間オムスク要塞監獄で過ごしました。帝政ロシアにおける初期社会主義者弾圧事件です。ミハイル・ペトラシェフスキーという貴族の元催されていた政治サロンにドストエフスキーも参加していたのです。
政治サロンといっても政府から弾圧されるような行動は取っておらず、革命思想などからも遠かったらしい。それでも取り締まられてしまったのはひとえに社会情勢のためでしょう。
数十年前には立憲君主制や共和制を理念に掲げたデカブリストの乱があった。東欧では独立の気運が高まっていた。この独立の気運は後年のクリミア戦争につながる。
見せしめの意味が大きかったのでしょう。逮捕し、死刑判決を出しておきながら撤回するも、直前までそれを囚人たち自身には伝えないというただ恐怖を与えるためだけに思える措置もそう考えれば腑に落ちる。
そういった経緯でシベリア送りにされたドストエフスキーがその地で何を見て何を感じたかが色濃く現れているのがこの『死の家の記録』なのだろう。
review
シベリア、と言ってもどんなところなのか。
この『死の家の記録』は囚人たちを中心に書いているし、一種の追想録なので情景の描写には長さに比べて乏しい。この監獄はどんなところにあって、何をさせられていたのか?
シベリア:ロシアのヨーロッパ部分の東端、ウラル山脈を西の境界とした太平洋岸まで続く広大な土地
シベリアと聞いて思い浮かべるのは一面雪で覆われ、白い地平線が見える平地。寒くて辛い土地。あまりにぼんやりしたイメージである。僕は映画『ドクトル・ジバゴ』のイメージでシベリアを捉えようか。そうしないと、”死の家”から遠ざかってしまう。遠ざかるって?辛そうに思えないってこと。辛いんだろうけど。
監獄の中で囚人たちは冗談を言い、罵り合い、酒を飲み(飲んでいるんです)、内職をして小銭を稼ぐ。ユーモアが効いていて笑わせられることもしばしば。
監獄内でもヒエラルキーはあるようで、人種や犯した犯罪、立場によって扱いが違っている。窃盗犯より殺人犯の方が獄内では一目置かれるのと同じようなものだろう。
読んでいると、監獄内という現実から目が逸らされていくような気がする。していることは獄外と何か違うところがあるのか……?と思ってしまう。『囚人という言葉の意味は、自由のない人間ということに尽きる。』と作中で言っているのにもかかわらず、だ。
それでもやはり彼らのいるところはひどい場所だ。最後、ゴリャンチコフは出獄するとき足枷を外す。鋲をねじ切り、金槌で叩く。
こんなものが今の今まで自分の脚に着いていたことに、あらためて愕然とする思いであった。
僕も愕然とした。そうだ、この人たちは囚人なんだ、と。足枷をはめられて自由のない人間だったのだと。ここまでに登場した人物ほぼ全ての脚に足枷が付いていたんだ。そのことに気づくと置き所が見つからないもやっとした気持ちが湧いてきた。
・『イワン・デニーソヴィチの一日』
ソルジェニーツィンの作。これも獄中記。しかし時代は違い、『死の家の記録』から約一世紀後、ソ連時代のものである。この『イワン』と『死の家の記録』を比較すると、違いに驚く。
全体主義が蔓延していながら、実際はスターリンの独裁体制だったソ連。『死の家の記録』ではまだ囚人が活き活きとしている、というのも変だが活気があった。『イワン』の方はただ陰惨である。事実、この作品はソ連では発禁だったようだ。剥き出しの支配。ただイワンという囚人の一日を書いているだけなのに。
一世紀でここまで変わるんだ……
・文豪の評
ドストエフスキーと同時代の文豪といえばトルストイ。彼がこの作品について
真率で自然なキリスト教的な観点に立った優れた教訓的な書物 としての感動を新たにした経緯を書簡に記しているらしい。
さっぱりわからない。
「神と隣人への愛に発した宗教的芸術」の手本としてもあげていたそうだ。
さっぱりわからない。
何が宗教的なのか?多分今では理性の結果として認識している道徳的な考えは、この時代宗教と結びついていて、その行為も宗教的なものとして捉えられたのだろう?
自分が嫌がることを他人にしてはならない何故?
理性→自分がされたら嫌なことは他人も嫌なんだよ
宗教→それが教えだから
という感じなのだろうか。
人の数だけ答えがあるのか。宗教っていうイデオロギーに対して今はもう半ば反射的に拒絶してしまう。
でも、昔の人にとってはそうじゃなかった。その気持ち、知りたいなぁ。
無理だろうなぁ。
『君の名は。』感じて想う
ネタバレをするつもりはないけれど、書いているうちに内容に触れることもあるかもしれない。頭まっさらで見たい人は読むのを思い止まろう。
Introduction
前作から比べると、その上映規模と広告展開の多岐さに新海誠もここまで来たか、と思わざるを得ない。おセンチなアニメーション監督として名を馳せる彼だが正面から堂々と王道に殴り込みをかけた『君の名は。』だ。
今回の映画で何よりもぼくが驚き、喝采を送ったのがその飛び抜けた強引さである。ここまで強引で無理を通して、どうだ!と見せびらかした映画は久しく見てなかった。何より注目したいのはそれを成し遂げたエンタメ映画への進化である。
Cast and Crew
監督は新海誠。綺麗な背景を丁寧に丁寧に描き、揺れ動く人の気持ちを言葉もそうだが背景にも託す監督である。ボーイミーツガールを、青臭く、キラキラと眩しく、もう見ているこっちがやりきれなくなるほどに(羨ましい)描いちゃう監督。製作中、自分の心を正気に保てるのだろうか……
加えて安藤雅司というジブリで『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』という国民的作品の作画監督も務めた人がこの映画で作画監督を務める。これで作画に注目しないというのは損ですよ。損。
音楽はRADWINPS。この映画は劇伴に合わせて内容も変えていったらしいですよ。音楽が強引さの一翼を担っています。もうびっくりするくらい。
Plot Summary
千年ぶりとなる彗星の来訪が一ヶ月後に迫っている日本。
彼女は夢を見る。彼になっている夢を。
彼は夢を見る。彼女になっている夢を。
互いに夢だと思いながら、山奥に住んでいる三葉は憧れの東京生活をエンジョイし、東京に住んでいる瀧は女になった自分を面白可笑しく楽しんで日々を送っていた。しかし、なんども繰り返される不思議な夢。ついにお互い疑念を抱く。「これは本当に夢なのか?」
抜け落ちている記憶、した覚えのない行動、変化している周囲の反応。
「私/俺たち、入れ替わってる!?」
戸惑いながら幾たびも重なる入れ替わりにも慣れ始め、互いに日記や連絡事項を書き残し、喧嘩をし、この不思議な状況を楽しんでいた二人。
しかしある日、突然その入れ替わりが終わる。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ち。瀧は三葉に直接会いに行くことにする。
「まだ会ったことのない君を、これから俺は探しに行く」
その先には意外な真実があった……
Review
男女入れ替わり逆転ものは数多い。だって面白そうじゃん!というのがその理由だろう。男が女で、女が男。そこから生まれる齟齬は見ていて可笑しくて面白い。現実にはあり得ない現象だからこそ、安心して笑い飛ばすことができる。さあみんな大いに笑って、大いにびっくりしましょう。
強引さもそうですが、物語もちょっとびっくりしますよ。
加えてそれだけでもないです。
強引さってなんのこと?冒頭は二人のモノローグから始まる。異なるカットをモノローグを使って繋げて、離れたところにいる二人を描く。OKOKここまでOK。直後、劇伴がガンガン鳴ります!
「え、え?」OPが始まります。こんな映画作る人だったけ?OPでも、OPだからこそでしょうか、より一層二人の日常をカットを背景と共につないでつないで描きます。クロス・カッティングに次ぐクロス・カッティング。そのまま見ていたら退屈になりそうなところを描いています。
冒頭の勢いで心をつかんできます。「あいやー……」
すごく意外でした。もっと静かな映画を作っている印象を持っていたので。これは冒頭だけの話ではありません。劇中でもここが盛り上がりどころだよーってところでジャジャジャーン。映画に合わせてむしろ映画が合わせた音楽に乗って物語が展開されます。ほれ、盛り上がれ!とあからさまな演出に笑います。そこで見せ場でもなく、見せ方もどーしようもないものだったら皮肉を含んだ笑になりますが、ちゃんと(失礼だな、おい)物語の変化あり映像の見せ場ありなので身を任せます。しかしその回数がかなり多い。
新海監督の他の長編アニメーション映画は間延びしている印象があります。逆に短編はテンポいいです。だから『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』の感想を耳にする機会が多く、『雲の向こう、約束の場所』や『星を追う子ども』の話はあまり耳にしないのでしょうな。
エンタメを徹底した『君の名は。』ではそんなことはありません。むしろテンポが良すぎるくらいです。ちらりとよぎる疑問を置き去りにする速度です。「細かいことはいいから楽しめ!」という姿勢に今までと違う監督の姿を見ます。
が、映画ではなく、ものすごく長いPVを見ているような印象も持ちます。
瀧と三葉という2人が主人公。2人の視点がくるくる入れ替わり、物語を語っているのですが、直接会話をするのは数えられるほどです。監督曰く(舞台挨拶にて)「出会う前の少年少女の話がやりたかった」2人がお互いの姿を目におさめ、言葉を交わすのは実は少ない。演出でそう見せているだけなのです。
まあそれは置いといて、「少年少女が出会うまでの話」を物語にするのは大変です。それを実現するために”夢”と”入れ替わり”という要素をつけました。
この映画は確かに映画ではありますが、映画というより散文詩です。これはこの『君の名は。』に限った話ではなく、この監督のそれ以前の作品群にも言えることですが。
台詞も、端的にそれらしくほのめかす。重要な台詞ほどはっきり言わない。人物より背景をクローズアップする。タイトルも『君の名は。』助詞で止めると余韻は残る。
新海監督の映画の背景は綺麗ですが、どう綺麗なのかというと”光”につきます。だから現実にある場所でもどこか現実ではないような感覚(あんなに東京綺麗じゃないです)がより際立つ。印象に残る残す。
PVっぽいわー。(散文詩なのかPVなのかどっちなのか)
今時の青春恋愛映画はどこかひねらないといけません。おそらくみんな気づいたのしょう。「こんなのあり得ない」と。昔はまだそれを許容し没頭できたが、今は見ている間は楽しみながらも頭の片隅で「あり得ないよなー」と思ってしまいます。みんな理知的になったのでしょう。
だからこそ最初から現実にあり得ないお話を提示すれば、そんな疑問が浮かぶ余地はなく素直に没頭できます。そしてそれが現実から離れて詩的になればなるほど、ぼくたちはより純粋に物語を楽しめるのです。だから最近アニメ映画が人気なのではないでしょうか。なんといっても絵ですから。そういうことがやりやすい。そんなことを新海監督が思ったのかは知りません。
全編詩的なのはぼくたちも胃がもたれるので地に足をつけた描写もしっかりあります。むしろアニメはそういうことが苦手なので、どれだけ違和感がないかに注目です。
ベタな展開もきっちり抑え、ちくしょうと思いながらもニヤニヤしてしまいます。もし女の子と入れ替わったら……そりゃおっぱいは揉むよ。揉んじゃうよ。うん。何回も。2人の主人公に嫌味がないのも王道です。
万人が楽しめる映画ではないだろうか。詩的にエンタメ。な、何を言ってるのかわからねーと思うが、いままで書いたことによるとそうらしいぞ……。
でもなんか映画を見た!って感じではないんだよなぁ。なんなんだろうなぁ。面白いんだけどなぁ。
『セヴァストーポリ』戦争
トルストイは軍人だったのは有名な話。その時の経験が作品にも活かされている。では、軍人として何をしていたのか。
その中で最も苛烈だったのがこの露土戦争末期クリミア戦争のセヴァストーポリだろう。この本はトルストイがまだ文壇に名を馳せていない頃、また従軍している最中に書いたものである。
クリミア戦争とは何か?”最後の聖戦”と呼ばれることもある。『聖戦』とは普通の戦争と何が違うのか。それは目的である。現代の戦争は、主に国家同士の利益の衝突から起こる。「したい」と「したい」がぶつかり合い、どちらかの主張を押し通そうとするものである。
聖戦の目的は『信仰』のためである。神様のためのものである。みんなが幸福になるための戦争である。敵も味方も戦争が終結すれば皆幸せになると信じ、戦争を起こす、これが聖戦である。正直全く理解できないぞ。
クリミア戦争の当事国はロシアイギリスフランストルコ、脇役にオーストリア。あとはほかにもいろいろな国が関係しているが 主戦国はこれらの国だ。ナイチンゲールが活躍したのもこの戦争であり、現在救急医療で使われている手法「トリアージ」が考案されたのもこの戦争である。
なぜこの戦争が起きたのか、は一言でなんていうことは不可能である。が、簡潔にまとめてみると、
露 土のキリスト教徒を救済するため侵攻。以前締結した条約に基づく正当な行為。これは聖戦である。
英 露アレルギー。露が行動を起こすのは世界(英ではない)に危害を加えようとするためだ。世界を守るには偉大なる英国が行動を起こさなければならない。
仏 英に求められて。またナポレオン三世の即位後間もなくだったので、仏の存在感のアピール、また帝政への好印象を与えるため。ナポレオンとは違うぞ。
土 自国のイスラム教徒とキリスト教との争いが悪化。ロシアとはもともと仲がよろしくない。産業革命の流れとイスラム教との相性の悪さ。
キリスト教と簡単に書いているがそれはロシア正教のことだったりカトリックのことだったりするので若干の注意。
このクリミア戦争はその名の通りクリミア半島 現在でも問題が絶えない地域である が主戦場。そしてセヴァストーポリで最も凄惨な戦闘が繰り広げられた。そんな戦場にトルストイは自ら志願し、赴いた。
セヴァストーポリでは露が籠城戦、英仏連合軍が攻城戦を繰り広げた。そもそも露軍は広大な土地をカバーするほどの人員がおらず、慢性的な人手不足だった。この戦闘でも人数差はあった。が、冬という季節と英仏軍の連携のとれていない動き等々に助けられ、ほぼ一年、300日あまり耐え切った。最終的には露軍の放棄、という戦闘の集結だった。その間に何があったのか。トルストイはロシアの軍人だからセヴァストーポリ内部の露軍の話。
この本は主役はおらず、兵隊たちがセヴァストーポリで何を感じ何を思い何をしているかのスケッチだ。そこには感情を入れ込むことなく、ただ理知的な姿勢(多少の熱に気分を高揚させながら)で戦場を眺める目がある。
そこには戦争をする際宣われるたいそうなお題目なんてない。人間らしい感情 臆病だと思われるのは嫌だ、手柄を立てれば出世できるかもしれない、死にたくないなんとかして戦場に出ずには済まないだろうか、なるようにしかならないジタバタしても無駄 といったようなどこにでもありそうなもの。
死というものを特別視することはなく、身近にあるもの。数秒後に自分もただの肉として転がっているかもしれないものとして受け入れていたり、どうしようもない恐怖に襲われたり。
戦争をするのはぼくたちと変わらない人間なんだ、と思わされる。下手な戦争映画よりよほど心に迫る。
そしてやはり自らの体験をもとにしたからか、相手として出てくるのは仏軍ばかりである。英国の同盟国としての参加している仏軍の方が英軍より戦果をあげていたという事実がある。
互いに白旗をあげて死体を収容する際にかわされる仏軍との仏語での会話。恨み言は一言もない。刺々しくもない。むしろ和やかな雰囲気ですらある。タバコを交換したり、互いの共通の知人の話をしたり。戦争ってなんなのだろうか。
最後の聖戦というだけあり、理屈だけでは計れない戦争だったのだろうか。それともそんなことは関係ないのか。
去年復刊したばかりで、字体も旧字体(それとも正字なのか異体字なのかはわからない)なので少し読みにくいが(戀愛に彈丸、聯隊に繃帯や周圍)それも一興である。どれだけ自分が読めるか、の小手調。
またこの戦争の後、さらなる亀裂がロシアと西欧諸国に入った。
(タイトルもセヴァストーポリではなく『セワ゛ストーポリ』という表記だがこの文章ではセヴァストーポリで統一した。)
『聖ペテロの雪』きゅん
聖ペテロとは?
イエス・キリストの最初の弟子とされ、キリストの弟子たちの中のリーダー的存在と目されていた。キリスト教は様々な諸派があり、それぞれに違いがある。その違いで戦争が起きたりしているのだが、この聖ペテロという人物はその諸派のいずれでも聖人とされているらしい。
しかし聖人といってもその扱いは大きな違いがあるようで、文章で読めばそうなのかとは思うがキリスト教とは縁遠いぼくには実感しにくい。
以上の記述もみんな大好きWikipedia参考です。
聖ペテロはどんな人物だったのか?を知らずにいてもこの本は読めるので懸念は全くもって不要。ただ気になってしまった。しかし『第三の魔弾』に続き、なんて素晴らしい題名だろうか。『聖ペテロの雪』という二つの単語をただ繋げただけなのにこんなに想像力が掻き立てられるなんて。おらわくわくすっぞ。
あらすじ
病院で目覚めたアムベルクに、「あなたは5週間前に交通事故にあい、意識不明の状態にあった」と医師は言った。しかし、彼の記憶は違っていた。5週間前モルヴェーデという小村に村医者として赴任したアムベルクはそこで、亡き父の旧友フォン・マルヒン男爵と、彼の庇護下にある不思議な少年に出会った。男爵は生理科学者のビビシェと共に秘密の研究を続けていたが、彼女はアムベルクのかつての同僚で、彼が密かに思いを寄せていた女性でもあった。神聖ローマ帝国の復興を夢見る男爵の奇怪な計画に次第に巻き込まれていくが……
何が本当かわからない、語り手が信用できない本に魅力を感じる。勿論それを気づかせなくてもいいし、気づかせても面白ければいい。その信頼のできなさに不確かさに、人間らしさをむしろ感じる 記憶なんてすぐに形を変えるし、小説という形式でそれをやる異和感に惹かれる。
『聖ペテロの雪』は気づく。なにかがおかしい。特におかしいのは、わたしことアムベルクが思い慕っていたビビシェという女性。村で再開する以前の彼女と村で会ってからの彼女が違いすぎる。昔好きだった女で「もし再会したら……」という妄想をしたらこんな女性になるだろう。それほどの違い。彼女と一夜を共にしたことを誇らしげに話す、アムベルクは初心だ。また他にも粗が目立つ病院での回想といった程の文章だが、いつの間にか回想中つまり過去にこの病院での出来事を予つまり未来の出来事を予見していたりもする。また、英国王が男爵の元を訪れていたり。
男爵の夢は神聖ローマ帝国の復興という、夢を見るにしても途方もない、ムー大陸を発見するというくらいの夢。実現できると信じる根拠も男爵にあるにはあるが。しかもその着想はアムベルクの父からのものだという。この父に関しても、息子のアムベルクと男爵との見方に大きな乖離がある。
信頼できない語り手によって語られる、途方もない計画を企てる男爵と愛する女。ただただ奇妙だ。そのくせ神について朗々と話す彼らは羨ましくも思う。
なぜ神聖ローマ帝国復興を夢見るのか。それは帝国が世界の中心だったから、ということだ。動機は置いておく。その夢を実現する方法が”科学”。ここで科学が記憶の不確かさ記述の信頼のできなさに割り込んでくる。現代はいわば科学という宗教の時代。すべてが論理的に説明できる、という時代。論理的合理的な物と、これまで言葉を費やしてきた”記憶、夢”というものは相性が悪い。今、21世紀ですら解明できてない謎であるこいつら。この本が書かれた1933年に至っては水と油だったろう。その噛み合わなさに、きゅんときた。
ぼくにとってペルッツはきゅんきゅんポイントをガンガン抑えてくる恐ろしい子!であるようだ……。
読み終わった時に「結局これは夢だったのかそれとも本当にあったことなのだろうか」と考える。ぼくは本当にあったことだと思う。その方が面白い。でももし夢だとしても面白いのが悩みどころである。
間をとって、一部夢で一部本当っていうのはどうでしょう?ダメ?
harman/kardon
掃除をしていて発掘されたのは昔イカとタコと呼んでいた物体。一体なんなのか全く分からず、家にあったのもの。10年越しに聞いてみたら「ウーファーとスピーカー」という答え。聞けば納得、見れば得心。
これは初代ではありません、が形は同じ。
harman/kardonと透明な樹脂に印字されている。調べると、その特徴的なフォルムで人気を博したようだ。まぁおしゃれなのはぼくも認めるところである。多分そこにこの商品の価値のほとんどはあるだろう。なんでも通称は”クラゲ”らしい。今でも後継機が発売されている。最新モデルも2〜3万くらいするようだ。
家に眠っていたのはその最初も最初、初代SOUNDSTICKである。USBしか入力がなく、PC専用2.1ch。コレ、ぼくの記憶の中では使われていた場面がない。今回おそらく10年ぶり以上の通電。煙を吐くんじゃないかと不安だったが、無事にLEDは点灯。錆びているUSB端子をmacbookにつないで音楽を流してみる。
「使えるじゃないの……」
予想以上にいい音を出す。やっぱmacから音楽を垂れ流しにするよりかこちらの方が断然良い。音量も自室には十分。むしろ大きすぎるくらいだ。これで聞く平沢進はいいぞ!
捨てようかとも思ったが、使えるのだったらとっておこうかなだけどもうちょっと利便性を高めたいな、と思っていたら自分で改造、ミニピン入力をつけた人のブログを発見。ぜひやりたい。壊れてもどうせ捨てるつもりのものだったし。
HDMIから音声だけ拾うってできないのかな。そうしたら家で映画見るときにも使えるしなぁ(調査結果:そういう機械があるみたいだ)。デジタルとアナログの変換は難しいのだろうか。
弱電の知識はゼロ(GNDはグランドということを知っているくらい)だが、これを機にちょっと触ってみようかな。まずはテスターを買おうかしら。
ワイヤレスいいなぁ。
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『素晴らしいアメリカ野球』は宇宙一
原題がThe Great American Novel。直訳すると「偉大なアメリカの小説」だろう。そこを『素晴らしいアメリカ野球』と訳した人はすごい。
なにもかもが異常だから異常が異常だと思えないという小説。「偉大なアメリカ小説」という原題からはかけ離れてた無軌道さと放埓さと過剰さ。野球をする無法者たち、まず現実にはあり得ない、いてはならないメジャーリーガーたちが面白いのでそんな一般的な道理道徳規範を無視した無理は気にならなくなる。「面白ければよし」そんな精神満ち溢れた小説であり、のっけの題名から皮肉が効いてる小説だった。“がんばれベアーズ”の数十倍いやらしく汚らしくて政治色が強く聞くに堪えない暴言が飛び交う小説。
しかし、わたくし野球経験者なのだがこんな野球も楽しいかもしれないと思ってしまう。
この小説のプロローグは文庫版で100ページ近くある。そんなプロローグありなのだろうか。ありなのだ。!に、が機関銃のように連発されるプロローグは騒々しく過剰に繰り返す文言には辟易する。が、慣れてしまえば後は急転直下。ページをめくる手が止まらなくなるという可笑しさ。メタルを聞く人はこんな感じなのかな、とふと思う。
The Great American Novelは何だ?そんな話題が出てくるプロローグ。それをかけるのは誰?そんなものあるの?その答えは、「スミティであり彼が書いたものこそThe Great American Novelである」という提言の元に本編が始まる。
『緋文字』に『ハックルベリ・フィンの冒険』に『白鯨』がThe Great American Novelの”なりそこない”の例として挙げられている。すごい!めちゃめちゃけなしてるよ!わたくしがすべて未読ながらも題名は知っているこの小説群に対する話者の態度は「こんなもの尻を拭くちり紙かジョークのタネしかならない」といった体である。素敵!おっと間違えた。不敵!
続けて怒涛の野球バカたちが登場する本編に。
ただ紹介しているだけなのに面白い。何かが起きるわけでもないし、ただの選手紹介なはずなのだが可笑しい。可笑しい奴らがその可笑しさゆえに可笑しいことをする、ただそれだけの話なのになぜこんなに面白いのか。
可笑しい奴らを登場させた後の作者の態度が投げやり過ぎてまた驚く。何がどうなろうと知ったことではない、無理やり終わらせたことがありありとわかる結末に口が塞がらない、苦笑いしか出てこない。清々しいまでの適当さ。「途中まで面白かったろ?なら文句言うな」とでも言いたげ。ぼくは中盤の3〜4部が面白さのピークだった。『小さくても丈夫』まで。
しかし、常人なら途中で筆を置くほどの小説 醒める、冷める、覚めるという三つのSを乗り越え を最後まで、「何はともあれ」書き切ったフィリップ・ロスはすごい。帯のアオリが『米文学史上最凶の悪ふざけ!』。ぼくは頷くことしかできない。
偉大なアメリカ小説、ってなんだろう?と考えると色々と条件が浮かんでくる。
アメリカらしさに満ちた小説であること、が第一条件になるだろう。そのアメリカらしさとは?何をさしてアメリカらしさと言うのか言えるのか?
かっこいい言葉を使えば、”自主独立の精神に満ちた小説”だとか”何者にも屈しない小説”だとか”雄大さと素朴さを外連味なくまっすぐ描いた小説”だとかがパッと頭の中に浮かぶ(アメリカ人でもないのにね!)。
それを痛快に笑い飛ばしバカにし唾を吐いた小説がこれなのではないだろうか。
個人的に偉大なアメリカ小説と言われて思い受かべるのは うーん『怒りの葡萄』とか『アンクルトムの小屋』になるのかな。怒りの葡萄はさわりだけ、アンクルトムの小屋は全く読んだことがないのだけれど。フォークナーはなんか違う気がするし、ピンチョンは偉大というより意外で、アーヴィングは好きだけど小市民的というか、もの足りない気がする。『風と共に去りぬ』はどうだ?
と、いう終わりの見えない議論をすることにくだらないと、言いのけたのがこの小説なのではないだろうか。そんなもの決める必要ないし、そんなものは存在しないと。
その態度も悪ふざけなのだろうか。
偉大な日本の小説って何になるのかな?
『平家物語』?『竜馬がゆく』とか?『吾輩は猫である』?うむ、なんとなく『大菩薩峠』を推しておこう(これも読んだことない)。
7/22『第三帝国』発売記念翻訳者トークイベントにて
ボラーニョの新本の来週発売に先駆け、先行販売と翻訳者のトークイベントが新宿紀伊国屋南店にて開催された。この『第三帝国』は死後発見された遺稿から出版された本で、白水社で刊行中のボラーニョコレクションの中では一番長い本である(野生の探偵たち、2666はボラーニョコレクションではない)。
翻訳者は柳原孝敦さん。5月にセルバンテス東京で行われていたボラーニョ関連のイベントにも出席していた。トーク相手に都甲幸治さんを迎えての対談形式のイベントだった。
少々遅刻しての到着。途中からしか話を聞けなかった。どうして遅刻してしまったのだろうか。新宿紀伊国屋本店しか行ったことなかったので迷った。なんでも新宿南店は来月から規模が縮小されるらしい。ぼくが到着した時には鏡の話をしていた。鏡は……なんかのモチーフとして使われているという話。
この対談の中で1番なるほどー、と思ったのはボラーニョは青春小説みたいな言い回しを良くすると。あるかもしれない。どうしても一種の虚構の中の虚構、つかみどころのない構成に目が行きがち。書かれている内容の詳細さ、どこからどこまでか本当かわからない記述に翻弄されがち。
でももって回った言いまわしの仕方そう言われればしている。今ボラーニョの他の著作である『2666』を読んでいるところなのだがその中にも照れ臭くなるようなやり取りが確かにあった。
「あなたがわたしを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」とわたしはあとになってから言いました。「わたしがあなたを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」
メロドラマの中で出てきたら歯の浮くような台詞だと思うだろう。今回聞くまで意識していなかった。
他にもボラーニョという作家の特異さ。現代の作家でありながら死後の発見される遺稿の膨大さ、死後出版される本の多さ。先ほど著作にはどこからどこまで本当かわからない記述が多い、というようなことを書いたが、すごく細かいところに本当のことが書いてあったりする、と。それこそ専門家でなければ知り得ないぐらいの深度の知識を書いていたり。
初めて読んだボラーニョが『アメリカ大陸のナチ文学』だったせいか、ボラーニョの記述は彼の想像の賜物と思って読んでいたぼくにとっては驚きがあった。
他にも小話。
ボラーニョコレクションの帯に使われている写真は原著の表紙に使われているものだそう。イベント終了後に原著を見たが、雰囲気抜群でした。また柳原さんにサインもしていただきました。この内容をどうやって訳しているのだろうと、ボラーニョを訳す方には尊敬の念を抱くばかり。
そしてイベントには翻訳者の野谷文昭さんもいらしていて、ボラーニョの小説の視点のうつろいやすさ、語り手の代わりやすさ、とっている態度の違いについて訳す時どうだった?と柳原さんに聞いていました。
いや、行ってよかった。ボラーニョを読む気がムンムン出てきた。この『第三帝国』もすごく面白そうだ。ファシストが勝ってしまうような小説であると、勧善懲悪の話に慣れている我々にとっては新鮮な驚きがある小説であるそうだ。
ボラーニョはファシストと戦って負けながらも、それでもまた戦いを挑んでいる作家ではないか、と都甲さんは言っていた。
『2666』を読み終わったらすぐにでも読みたいが、他にもなかなかに積んでしまっている本があるんだよな。くう、何から読もう。