『セヴァストーポリ』戦争
トルストイは軍人だったのは有名な話。その時の経験が作品にも活かされている。では、軍人として何をしていたのか。
その中で最も苛烈だったのがこの露土戦争末期クリミア戦争のセヴァストーポリだろう。この本はトルストイがまだ文壇に名を馳せていない頃、また従軍している最中に書いたものである。
クリミア戦争とは何か?”最後の聖戦”と呼ばれることもある。『聖戦』とは普通の戦争と何が違うのか。それは目的である。現代の戦争は、主に国家同士の利益の衝突から起こる。「したい」と「したい」がぶつかり合い、どちらかの主張を押し通そうとするものである。
聖戦の目的は『信仰』のためである。神様のためのものである。みんなが幸福になるための戦争である。敵も味方も戦争が終結すれば皆幸せになると信じ、戦争を起こす、これが聖戦である。正直全く理解できないぞ。
クリミア戦争の当事国はロシアイギリスフランストルコ、脇役にオーストリア。あとはほかにもいろいろな国が関係しているが 主戦国はこれらの国だ。ナイチンゲールが活躍したのもこの戦争であり、現在救急医療で使われている手法「トリアージ」が考案されたのもこの戦争である。
なぜこの戦争が起きたのか、は一言でなんていうことは不可能である。が、簡潔にまとめてみると、
露 土のキリスト教徒を救済するため侵攻。以前締結した条約に基づく正当な行為。これは聖戦である。
英 露アレルギー。露が行動を起こすのは世界(英ではない)に危害を加えようとするためだ。世界を守るには偉大なる英国が行動を起こさなければならない。
仏 英に求められて。またナポレオン三世の即位後間もなくだったので、仏の存在感のアピール、また帝政への好印象を与えるため。ナポレオンとは違うぞ。
土 自国のイスラム教徒とキリスト教との争いが悪化。ロシアとはもともと仲がよろしくない。産業革命の流れとイスラム教との相性の悪さ。
キリスト教と簡単に書いているがそれはロシア正教のことだったりカトリックのことだったりするので若干の注意。
このクリミア戦争はその名の通りクリミア半島 現在でも問題が絶えない地域である が主戦場。そしてセヴァストーポリで最も凄惨な戦闘が繰り広げられた。そんな戦場にトルストイは自ら志願し、赴いた。
セヴァストーポリでは露が籠城戦、英仏連合軍が攻城戦を繰り広げた。そもそも露軍は広大な土地をカバーするほどの人員がおらず、慢性的な人手不足だった。この戦闘でも人数差はあった。が、冬という季節と英仏軍の連携のとれていない動き等々に助けられ、ほぼ一年、300日あまり耐え切った。最終的には露軍の放棄、という戦闘の集結だった。その間に何があったのか。トルストイはロシアの軍人だからセヴァストーポリ内部の露軍の話。
この本は主役はおらず、兵隊たちがセヴァストーポリで何を感じ何を思い何をしているかのスケッチだ。そこには感情を入れ込むことなく、ただ理知的な姿勢(多少の熱に気分を高揚させながら)で戦場を眺める目がある。
そこには戦争をする際宣われるたいそうなお題目なんてない。人間らしい感情 臆病だと思われるのは嫌だ、手柄を立てれば出世できるかもしれない、死にたくないなんとかして戦場に出ずには済まないだろうか、なるようにしかならないジタバタしても無駄 といったようなどこにでもありそうなもの。
死というものを特別視することはなく、身近にあるもの。数秒後に自分もただの肉として転がっているかもしれないものとして受け入れていたり、どうしようもない恐怖に襲われたり。
戦争をするのはぼくたちと変わらない人間なんだ、と思わされる。下手な戦争映画よりよほど心に迫る。
そしてやはり自らの体験をもとにしたからか、相手として出てくるのは仏軍ばかりである。英国の同盟国としての参加している仏軍の方が英軍より戦果をあげていたという事実がある。
互いに白旗をあげて死体を収容する際にかわされる仏軍との仏語での会話。恨み言は一言もない。刺々しくもない。むしろ和やかな雰囲気ですらある。タバコを交換したり、互いの共通の知人の話をしたり。戦争ってなんなのだろうか。
最後の聖戦というだけあり、理屈だけでは計れない戦争だったのだろうか。それともそんなことは関係ないのか。
去年復刊したばかりで、字体も旧字体(それとも正字なのか異体字なのかはわからない)なので少し読みにくいが(戀愛に彈丸、聯隊に繃帯や周圍)それも一興である。どれだけ自分が読めるか、の小手調。
またこの戦争の後、さらなる亀裂がロシアと西欧諸国に入った。
(タイトルもセヴァストーポリではなく『セワ゛ストーポリ』という表記だがこの文章ではセヴァストーポリで統一した。)
『聖ペテロの雪』きゅん
聖ペテロとは?
イエス・キリストの最初の弟子とされ、キリストの弟子たちの中のリーダー的存在と目されていた。キリスト教は様々な諸派があり、それぞれに違いがある。その違いで戦争が起きたりしているのだが、この聖ペテロという人物はその諸派のいずれでも聖人とされているらしい。
しかし聖人といってもその扱いは大きな違いがあるようで、文章で読めばそうなのかとは思うがキリスト教とは縁遠いぼくには実感しにくい。
以上の記述もみんな大好きWikipedia参考です。
聖ペテロはどんな人物だったのか?を知らずにいてもこの本は読めるので懸念は全くもって不要。ただ気になってしまった。しかし『第三の魔弾』に続き、なんて素晴らしい題名だろうか。『聖ペテロの雪』という二つの単語をただ繋げただけなのにこんなに想像力が掻き立てられるなんて。おらわくわくすっぞ。
あらすじ
病院で目覚めたアムベルクに、「あなたは5週間前に交通事故にあい、意識不明の状態にあった」と医師は言った。しかし、彼の記憶は違っていた。5週間前モルヴェーデという小村に村医者として赴任したアムベルクはそこで、亡き父の旧友フォン・マルヒン男爵と、彼の庇護下にある不思議な少年に出会った。男爵は生理科学者のビビシェと共に秘密の研究を続けていたが、彼女はアムベルクのかつての同僚で、彼が密かに思いを寄せていた女性でもあった。神聖ローマ帝国の復興を夢見る男爵の奇怪な計画に次第に巻き込まれていくが……
何が本当かわからない、語り手が信用できない本に魅力を感じる。勿論それを気づかせなくてもいいし、気づかせても面白ければいい。その信頼のできなさに不確かさに、人間らしさをむしろ感じる 記憶なんてすぐに形を変えるし、小説という形式でそれをやる異和感に惹かれる。
『聖ペテロの雪』は気づく。なにかがおかしい。特におかしいのは、わたしことアムベルクが思い慕っていたビビシェという女性。村で再開する以前の彼女と村で会ってからの彼女が違いすぎる。昔好きだった女で「もし再会したら……」という妄想をしたらこんな女性になるだろう。それほどの違い。彼女と一夜を共にしたことを誇らしげに話す、アムベルクは初心だ。また他にも粗が目立つ病院での回想といった程の文章だが、いつの間にか回想中つまり過去にこの病院での出来事を予つまり未来の出来事を予見していたりもする。また、英国王が男爵の元を訪れていたり。
男爵の夢は神聖ローマ帝国の復興という、夢を見るにしても途方もない、ムー大陸を発見するというくらいの夢。実現できると信じる根拠も男爵にあるにはあるが。しかもその着想はアムベルクの父からのものだという。この父に関しても、息子のアムベルクと男爵との見方に大きな乖離がある。
信頼できない語り手によって語られる、途方もない計画を企てる男爵と愛する女。ただただ奇妙だ。そのくせ神について朗々と話す彼らは羨ましくも思う。
なぜ神聖ローマ帝国復興を夢見るのか。それは帝国が世界の中心だったから、ということだ。動機は置いておく。その夢を実現する方法が”科学”。ここで科学が記憶の不確かさ記述の信頼のできなさに割り込んでくる。現代はいわば科学という宗教の時代。すべてが論理的に説明できる、という時代。論理的合理的な物と、これまで言葉を費やしてきた”記憶、夢”というものは相性が悪い。今、21世紀ですら解明できてない謎であるこいつら。この本が書かれた1933年に至っては水と油だったろう。その噛み合わなさに、きゅんときた。
ぼくにとってペルッツはきゅんきゅんポイントをガンガン抑えてくる恐ろしい子!であるようだ……。
読み終わった時に「結局これは夢だったのかそれとも本当にあったことなのだろうか」と考える。ぼくは本当にあったことだと思う。その方が面白い。でももし夢だとしても面白いのが悩みどころである。
間をとって、一部夢で一部本当っていうのはどうでしょう?ダメ?
harman/kardon
掃除をしていて発掘されたのは昔イカとタコと呼んでいた物体。一体なんなのか全く分からず、家にあったのもの。10年越しに聞いてみたら「ウーファーとスピーカー」という答え。聞けば納得、見れば得心。
これは初代ではありません、が形は同じ。
harman/kardonと透明な樹脂に印字されている。調べると、その特徴的なフォルムで人気を博したようだ。まぁおしゃれなのはぼくも認めるところである。多分そこにこの商品の価値のほとんどはあるだろう。なんでも通称は”クラゲ”らしい。今でも後継機が発売されている。最新モデルも2〜3万くらいするようだ。
家に眠っていたのはその最初も最初、初代SOUNDSTICKである。USBしか入力がなく、PC専用2.1ch。コレ、ぼくの記憶の中では使われていた場面がない。今回おそらく10年ぶり以上の通電。煙を吐くんじゃないかと不安だったが、無事にLEDは点灯。錆びているUSB端子をmacbookにつないで音楽を流してみる。
「使えるじゃないの……」
予想以上にいい音を出す。やっぱmacから音楽を垂れ流しにするよりかこちらの方が断然良い。音量も自室には十分。むしろ大きすぎるくらいだ。これで聞く平沢進はいいぞ!
捨てようかとも思ったが、使えるのだったらとっておこうかなだけどもうちょっと利便性を高めたいな、と思っていたら自分で改造、ミニピン入力をつけた人のブログを発見。ぜひやりたい。壊れてもどうせ捨てるつもりのものだったし。
HDMIから音声だけ拾うってできないのかな。そうしたら家で映画見るときにも使えるしなぁ(調査結果:そういう機械があるみたいだ)。デジタルとアナログの変換は難しいのだろうか。
弱電の知識はゼロ(GNDはグランドということを知っているくらい)だが、これを機にちょっと触ってみようかな。まずはテスターを買おうかしら。
ワイヤレスいいなぁ。
【国内正規品】harman/kardon SOUNDSTICKS WIRELESS 2.1chワイヤレススピーカーシステム 高音質アンプ内蔵 Bluetooth対応 SOUNDSTICKSBTJP
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『素晴らしいアメリカ野球』は宇宙一
原題がThe Great American Novel。直訳すると「偉大なアメリカの小説」だろう。そこを『素晴らしいアメリカ野球』と訳した人はすごい。
なにもかもが異常だから異常が異常だと思えないという小説。「偉大なアメリカ小説」という原題からはかけ離れてた無軌道さと放埓さと過剰さ。野球をする無法者たち、まず現実にはあり得ない、いてはならないメジャーリーガーたちが面白いのでそんな一般的な道理道徳規範を無視した無理は気にならなくなる。「面白ければよし」そんな精神満ち溢れた小説であり、のっけの題名から皮肉が効いてる小説だった。“がんばれベアーズ”の数十倍いやらしく汚らしくて政治色が強く聞くに堪えない暴言が飛び交う小説。
しかし、わたくし野球経験者なのだがこんな野球も楽しいかもしれないと思ってしまう。
この小説のプロローグは文庫版で100ページ近くある。そんなプロローグありなのだろうか。ありなのだ。!に、が機関銃のように連発されるプロローグは騒々しく過剰に繰り返す文言には辟易する。が、慣れてしまえば後は急転直下。ページをめくる手が止まらなくなるという可笑しさ。メタルを聞く人はこんな感じなのかな、とふと思う。
The Great American Novelは何だ?そんな話題が出てくるプロローグ。それをかけるのは誰?そんなものあるの?その答えは、「スミティであり彼が書いたものこそThe Great American Novelである」という提言の元に本編が始まる。
『緋文字』に『ハックルベリ・フィンの冒険』に『白鯨』がThe Great American Novelの”なりそこない”の例として挙げられている。すごい!めちゃめちゃけなしてるよ!わたくしがすべて未読ながらも題名は知っているこの小説群に対する話者の態度は「こんなもの尻を拭くちり紙かジョークのタネしかならない」といった体である。素敵!おっと間違えた。不敵!
続けて怒涛の野球バカたちが登場する本編に。
ただ紹介しているだけなのに面白い。何かが起きるわけでもないし、ただの選手紹介なはずなのだが可笑しい。可笑しい奴らがその可笑しさゆえに可笑しいことをする、ただそれだけの話なのになぜこんなに面白いのか。
可笑しい奴らを登場させた後の作者の態度が投げやり過ぎてまた驚く。何がどうなろうと知ったことではない、無理やり終わらせたことがありありとわかる結末に口が塞がらない、苦笑いしか出てこない。清々しいまでの適当さ。「途中まで面白かったろ?なら文句言うな」とでも言いたげ。ぼくは中盤の3〜4部が面白さのピークだった。『小さくても丈夫』まで。
しかし、常人なら途中で筆を置くほどの小説 醒める、冷める、覚めるという三つのSを乗り越え を最後まで、「何はともあれ」書き切ったフィリップ・ロスはすごい。帯のアオリが『米文学史上最凶の悪ふざけ!』。ぼくは頷くことしかできない。
偉大なアメリカ小説、ってなんだろう?と考えると色々と条件が浮かんでくる。
アメリカらしさに満ちた小説であること、が第一条件になるだろう。そのアメリカらしさとは?何をさしてアメリカらしさと言うのか言えるのか?
かっこいい言葉を使えば、”自主独立の精神に満ちた小説”だとか”何者にも屈しない小説”だとか”雄大さと素朴さを外連味なくまっすぐ描いた小説”だとかがパッと頭の中に浮かぶ(アメリカ人でもないのにね!)。
それを痛快に笑い飛ばしバカにし唾を吐いた小説がこれなのではないだろうか。
個人的に偉大なアメリカ小説と言われて思い受かべるのは うーん『怒りの葡萄』とか『アンクルトムの小屋』になるのかな。怒りの葡萄はさわりだけ、アンクルトムの小屋は全く読んだことがないのだけれど。フォークナーはなんか違う気がするし、ピンチョンは偉大というより意外で、アーヴィングは好きだけど小市民的というか、もの足りない気がする。『風と共に去りぬ』はどうだ?
と、いう終わりの見えない議論をすることにくだらないと、言いのけたのがこの小説なのではないだろうか。そんなもの決める必要ないし、そんなものは存在しないと。
その態度も悪ふざけなのだろうか。
偉大な日本の小説って何になるのかな?
『平家物語』?『竜馬がゆく』とか?『吾輩は猫である』?うむ、なんとなく『大菩薩峠』を推しておこう(これも読んだことない)。
7/22『第三帝国』発売記念翻訳者トークイベントにて
ボラーニョの新本の来週発売に先駆け、先行販売と翻訳者のトークイベントが新宿紀伊国屋南店にて開催された。この『第三帝国』は死後発見された遺稿から出版された本で、白水社で刊行中のボラーニョコレクションの中では一番長い本である(野生の探偵たち、2666はボラーニョコレクションではない)。
翻訳者は柳原孝敦さん。5月にセルバンテス東京で行われていたボラーニョ関連のイベントにも出席していた。トーク相手に都甲幸治さんを迎えての対談形式のイベントだった。
少々遅刻しての到着。途中からしか話を聞けなかった。どうして遅刻してしまったのだろうか。新宿紀伊国屋本店しか行ったことなかったので迷った。なんでも新宿南店は来月から規模が縮小されるらしい。ぼくが到着した時には鏡の話をしていた。鏡は……なんかのモチーフとして使われているという話。
この対談の中で1番なるほどー、と思ったのはボラーニョは青春小説みたいな言い回しを良くすると。あるかもしれない。どうしても一種の虚構の中の虚構、つかみどころのない構成に目が行きがち。書かれている内容の詳細さ、どこからどこまでか本当かわからない記述に翻弄されがち。
でももって回った言いまわしの仕方そう言われればしている。今ボラーニョの他の著作である『2666』を読んでいるところなのだがその中にも照れ臭くなるようなやり取りが確かにあった。
「あなたがわたしを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」とわたしはあとになってから言いました。「わたしがあなたを愛していることに気づくのにどうしてこんなに時間がかかったのかしら?」
メロドラマの中で出てきたら歯の浮くような台詞だと思うだろう。今回聞くまで意識していなかった。
他にもボラーニョという作家の特異さ。現代の作家でありながら死後の発見される遺稿の膨大さ、死後出版される本の多さ。先ほど著作にはどこからどこまで本当かわからない記述が多い、というようなことを書いたが、すごく細かいところに本当のことが書いてあったりする、と。それこそ専門家でなければ知り得ないぐらいの深度の知識を書いていたり。
初めて読んだボラーニョが『アメリカ大陸のナチ文学』だったせいか、ボラーニョの記述は彼の想像の賜物と思って読んでいたぼくにとっては驚きがあった。
他にも小話。
ボラーニョコレクションの帯に使われている写真は原著の表紙に使われているものだそう。イベント終了後に原著を見たが、雰囲気抜群でした。また柳原さんにサインもしていただきました。この内容をどうやって訳しているのだろうと、ボラーニョを訳す方には尊敬の念を抱くばかり。
そしてイベントには翻訳者の野谷文昭さんもいらしていて、ボラーニョの小説の視点のうつろいやすさ、語り手の代わりやすさ、とっている態度の違いについて訳す時どうだった?と柳原さんに聞いていました。
いや、行ってよかった。ボラーニョを読む気がムンムン出てきた。この『第三帝国』もすごく面白そうだ。ファシストが勝ってしまうような小説であると、勧善懲悪の話に慣れている我々にとっては新鮮な驚きがある小説であるそうだ。
ボラーニョはファシストと戦って負けながらも、それでもまた戦いを挑んでいる作家ではないか、と都甲さんは言っていた。
『2666』を読み終わったらすぐにでも読みたいが、他にもなかなかに積んでしまっている本があるんだよな。くう、何から読もう。
『伯爵夫人』erectio
声に出して読みたい日本語。次々と繰り出される淫語は小気味よく笑いを誘う。伯爵夫人とは何者なのか。活動写真(映画)を揶揄しつつ小説の構造自体もその揶揄されている通りなのではないだろうか。
あらすじ
おっぱいいっぱいおまんこいっぱい
こんな笑劇だと思っていなかったので電車の中で笑いをこらえるのに必死。言葉の選び方に悪意を感じる。未成年で学生の「私」と一緒に暮らしている伯爵夫人とのpillow talkと実践。周囲にいる女性について一家言。
むしろ、「青臭え魔羅」を「熟れたまんこに滑り込ませようとする気概」をみなぎらせてこれ見よがしに射精したのであれば、「熟れたまんこ」の持ち主には礼を失した振る舞いとは映らなかったかもしれない。
笑うしかないでしょう。青臭え魔羅と熟れたまんこ。あけすけに恥じらうこともなく開陳される知識と経験加えて愛撫は未成年ながら彼の祖父と瓜二つの素晴らしい逸物を持っている「私」を揺り動かし射精させる。
女と戦争は繋がっているという話になり、性を活かして戦う女の姿を描き(伯爵夫人の実体験という体)、開戦の日を迎える。男だけが戦争しているのではない、と伯爵夫人は言う。
下の話に始まり終始その話ばかりしている印象を受けるが、蓮實重彦がこの伯爵夫人を書くきっかけになったかもしれないというジャズ評論家の12月8日の小話を思うと、下の話は12月8日を書くための装飾だったのかもしれないと思う。
青臭え魔羅や熟れたまんこ、一尺三寸や割礼された逸物。従姉妹の未成熟な薄い胸。ただ翻弄されるだけの「私」。
短い時間で書き上げたらこのような出来になるのかな。
ルイーズ・ブルックス似の女がその鬘を外した禿頭で こう見えても、この私、魔羅切りのお仙と呼ばれ、多少は名のしられた女でござんす。と剃刀を持っている姿はおかしくてしょうがない。数秒後には返り討ちにあっているのなら尚更である。
時代がかった言い方と嘘くさい物語。そこに魅力を感じるか、それとも愛想をつかすかは人次第。ぼくは好きです。
小説(に限らず)はほぼ嘘で作られていて、その嘘を『嘘だと感じさせない思わせない』か『嘘だとわからせた上でその嘘を楽しませるか』のどちらかだと思っている。この小説は明らかに後者で(著者には楽しませるつもりは皆無でしょうが)嘘を嘘でもいいと思わせる力は見事。大仰な語り口と止まることを許さないpillow talkのなせる技か。
伯爵夫人と彼女に限らず、他にも女性が登場し彼女たちも嘘くさい胡散くさい。どれだけ魔羅魔羅言えば気がすむのか、逸物を触るのか、愛撫するのか。登場する女性の中で誰が一番好きか?という俗な楽しみかたもできるほど。ぼくは コメントを控えさせていただきます。
「私」がどうしても印象薄くなってしまうが、彼の性に対する理念は天晴れで、世界の均衡を崩すまいとしてあなたに手を出さないのです、と伯爵夫人に言う。一聴、意味がわからない気もするが、その均衡が崩れた時戦争が起きたのだろうか。
本の表紙もルイーズ・ブルックス(だよね?)。伯爵夫人は何処に行った、と思うが彼女は「私」の元からも去るので従姉妹の成長した姿かもと思われるルイーズ・ブルックスが表紙なのはぴったりか。
第29回三島由紀夫賞受賞作で授賞式での著者の振る舞いがいろいろ物言いを呼んでいるようですが、ぼくとしては「面白い糞爺だな」と思います。嫌いではありません。
著者に対して糞爺と言うのは度を越した失礼だと思いますが、他にうまく言葉を選べないので頭を下げて「どうか堪忍してやっておくんなせえ」
『足摺岬』
寂しいのは自分をわかってもらえないし自分でもわからないから。理由は言葉にならずただ己の心の中で形を持たず、ふわふわとしている。
言葉にならない気持ちが涙になり慟哭になり、岬へと足を運ばせる。「死ぬ」ということは解放を意味するのだろうか?いや解放されていないからこそ自死を選ぶのではないだろうか。妥協できず頑固に考えを曲げないから死を選ぶ。
あらすじ
死を決意した学生の「私」が四国で巡り合った老巡礼との邂逅と、その無償の好意で救われる『足摺岬』
寂しさがみなぎる主人公たち。どの短編も世の中からはみ出してしまった孤独を書く。こんなにも寂しい短編たちは初めてだ。救われることはなくむしろ崖下へと突き落とされていくような人物。
仕方がない、と諦めの言葉が口をつく。「誰が悪いわけでもない」だからこそ苦しむし、もがく。
今の自分の状況は幸せなんだ、と思わされる。今の世の中は随分と優しくなったんだと。日本といえども昔はあり得た艱難。それを扱い、人はどう生きるかを書く田宮虎彦も寂しい人だったのか。
淡々とした筆致の中に心を抉るような『寂しさ』。どんな悲惨な状況も立場も、あくまで人となりを作るためで、必要以上に入れ込むことはない。
『足摺岬』でも好意に救われ自ら死ぬことはやめたがその後少しでも状況が好転したのか、と問われればぼくの読んだ印象ではしていない。
が、自殺しようとした心境を、その心持ちを一瞬でも老人と分かち合うことができたから決して幸せでなはない生活を送ることができたのだと思う。
自分の中にある業の背負い方は人それぞれだが、投げ出さない人たちだからこそ孤独になってしまうのか。