狐が風鈴を鳴らす

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パパ・ユーア クレイジー

introduction

月並みの言葉でしか言えないが、これはすごいいい本だった。何がいいのかは読めばわかるぞ。ということでみんな読もう。

 

author

ウィリアム・サローヤン。移民の子としてアメリカに生まれた。様々な職を転々としたのち1933年発表の「空中ぶらんこに乗った勇敢な青年」で注目を浴びる。

文庫本に載っている著者近影を見て、親戚にいる気のいいおじさんみたいだなと思う。

 

plot summary

マリブの海辺にある父の家で、僕と父の新しい生活が始まった。僕と父は一緒に語り合い、遊び、食べる。世界を見て、世界について考えること。僕は彼と一緒に暮らして、世界について知っていった。

 

review

昨年、2016年の河出書房新社日本文学全集の講演会において、高橋源一郎さんが衝撃を受けた翻訳本でこの本を挙げていた。訳者は伊丹十三。これは読むしかない。早速手に入れてページをめくる。

これは一気読みするのがもったいない本だと思った。小気味良い会話と平易な文章だからスラスラと読める。その上、節で短く区切られているので気がつくとページを何ページもめくっていることがしばしばあった。その度に僕は「もったいないことをした」と思う。

本だからいつかは読み終わるのが当たり前。その世界に入り込み、一気読みしてしまう本も数多くある。それはすごいことだ。夢中になって周りが見えなくなってしまうということだから。

ただ、この「パパ・ユーア クレイジー」は世界に入り込んで、まるで自分も生活しているかのような錯覚を得る。この本を読んでいるといつの間にか僕も、小説の中の"僕"ことピートと一緒に寝起きし、ご飯を食べ、海でかけっこをしている。こんな本は滅多にない、そう思うと読むのが惜しくなってしまった。だからなるべく少しづつ読むように心がけて読んだ。

そして僕は次元を超えていたことに気がつく。今、3次元の世界から紙面の中の2次元に入り込んでいた。とんでもないぞ……コレ。

僕は2次元で、父との会話を"僕"ことピートと一緒に楽しんでいる。ピートに入り込むのはどちらかというと父よりピートのほうに年齢が近いせいか。

昨夜見た夢の話を父とピートはする。

「私は道路を歩いていたんだ。すると、すぐそこに、私の目の前の歩道に、真新しい札がまるごと一と束落ちているのを私は見たんだ-後略-

「何ドル札だったの?父さん。一ドル札だったの?それとも十ドル札だったの?」

「百ドル札だったのさ」

「五百枚の百ドル札?」

「そうだ」

「それ、いくらになるの?」

「五万ドルさ」

「ウワア!」

そして、いつの間にか自分が父と会話をしているかのように感じてしまうのだ。

それはこの小説の、人称代名詞を略さない、という奇天烈な翻訳の仕方のせいでもある。講演会で高橋さんもそのことに触れていた。同じ代名詞が短い間になんども出てきたらどうしてもくどい文章になると思うでしょう?僕も思った。

しかしこの小説に限ってはそれで良かった。

あとがきで伊丹十三は書いている。

私と言おうと、僕と言おうと厳密な意味においてアイの訳語になりうるものではないのだ。

なんでも、"私"や"僕"はその言葉を使った時点で「相手に対する自分の立場」を表明してしまっている。一方、西欧の文化は主体と客体を否応なしに区別する。そのため英語の「アイ」はまず自我を起点に関係を作り上げている言葉だそうだ。

成る程。成る程!意識はしたことなかったが言われて見ればそうかもしれない。あとがきさえも読むことができて良かったな、と思う。

 

そして自分が小説の中に入り込むと自然とピートと同じような視点で世界を見はじめる。するとどうだろう。

それこそ使い古されて陳腐なもの言いになるが、世界はとっても美しいことに気づかされた。

 

この感覚を是非味わって。

 

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)