狐が風鈴を鳴らす

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マダム・エドワルダ

introduction

敬虔なカトリック教徒が信仰を棄て、コレを書いたのかと思うと空いた口が塞がらない。あまりにも放埓で卑賤なので嫌悪感を覚える。しかしそれと同時に楽しそうと思う自分もいる。う〜ん、まいっちゃう。

 

author

ジョルジュ・バタイユ・フランスの思想家でニーチェの後継者をいわれもしたそうだ。その思想は天を穿ち地獄を覗くほど反社会的。この小説からもそれはわかる。著者近影を見て顔と頭は関係ないとわかっていながら「この顔でこんなもん書いちゃうのか……」と思ってしまう。

世間一般的に、真面目な人ほど思い詰めると抜け出せない、というようなことが言われるが、彼の場合「抜け出せないことが分かった為に悟りが啓けたのでは?」と感じた。

 

plot summary (表題作「マダム・エドワルダ」)

 

墓場のように寂れ氷のように凍てついた夜の街の中、苦悩に苛まれた「俺」はマダム・エドワルダを見つける。彼女はどんな娼婦とも違う……陶酔と死、あけすけな淫靡が満ちる美に溢れた一夜の話。

review

 

感想なんて書かずに今すぐこの本について誰かと話したい、という気持ちでいっぱいになった。

どうしてこれを書いたのか、これを書いて何を言いたいのか?を考えた時、生とエロスは(エロスって書くと途端に俗っぽくなるなぁ)どうしようもなく深く結びついている、ということが言いたいのだろうと考えた。正直に言えばそのくらいのことしかわからなかった。

おれも夜のように裸になりたかった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。おれの股間と夜の冷気を結びつけたかったのだ。

「マダム・エドワルダ」のこの文章を読んだだけで両手を挙げて降参したくなった。笑いたくなるような文章なんだけど、1ページ目からこれではこの先はどうなるのかわかったもんじゃない。

その懸念通りに、どんどんぶっ飛ぶ話。感じたことは「こんなの見てらんない」。

 

そして今回、この本を手に取ったのは表題作ではなく同時収録されている「眼球譚」が読みたかったからだったのだが……マダム・エドワルダも大概だったがなんだよコレェ!通勤途中の電車の中で読んでいいもんじゃないよ!

「お皿は、お尻を乗っけるためにあるのよ」 

何を言っていらっしゃるの?と思わずにはいられない。読んでいくと、登場人物たちはオルガスムスに達するために、常識で考えれば汚らわしく忌避されている行為を次々と行ってゆく。そして、満足している。この本を読んで嫌悪感と好奇心が入り混じっている自分がいる。

 

ちょっと話はそれるがエロいもの、ことは「大好き!」とは言いにくい。だけどどんな人間だって関心はあることだと思う。どうして「大好き!」と言いにくいのかを考えた時、あまりにも個人的な事柄かつ生々しいからだろう、というのが自分の結論です。エロについて語る時、どうしても自分の肉体から離れて語ることはできない。これ以上突き詰めると自分の性癖を晒してしまう事態に陥りそうなのでストップをかけますが、このストップをかけないのがバタイユでした。

エロいエロい言っていますが、そのエロを通じてバタイユは一体何を書こうとしたのか?が焦点です。

この本には小説だけでなく、著者本人によるエロティシズムに関する言論も同時収録されており、それを小説を読み終わった後に読むと、言っていることがわかるような分からないような気分になった。

この『エロシティズムと死の魅惑』という題の講演・討論会を読んで思ったのは「エロについてここまで熱く語り合えるって羨ましい!」というちょっとずれた感想でした。だから僕も誰かと語り合いたくなったのかもしれない。

人の根源的生命活動と言えるエロを通して、自分の中に潜り込む。他者とわかりあう、分かち合う。生と死に近づいて己を探る。はい、何を言っているのか僕自身よくわかりません!一つ言えるのは、この小説のことは忘れないだろうということ。

なお、眼球譚はロード・オーシュという変名で書かれており「便所神」という意味らしい。ホントこいつなんなんだ!?気になりすぎるぞ。

「エロシティズムとはおしなべて死のうちに見出される生命の肯定」

 

マダム・エドワルダ―バタイユ作品集 (角川文庫クラシックス)

マダム・エドワルダ―バタイユ作品集 (角川文庫クラシックス)