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狐が風鈴を鳴らす

本 映画 音楽 その他諸々の雑感を書き連ねるブログ

『聖ペテロの雪』きゅん

感想 読書

聖ペテロとは?

 

イエス・キリストの最初の弟子とされ、キリストの弟子たちの中のリーダー的存在と目されていた。キリスト教は様々な諸派があり、それぞれに違いがある。その違いで戦争が起きたりしているのだが、この聖ペテロという人物はその諸派のいずれでも聖人とされているらしい。

しかし聖人といってもその扱いは大きな違いがあるようで、文章で読めばそうなのかとは思うがキリスト教とは縁遠いぼくには実感しにくい。

以上の記述もみんな大好きWikipedia参考です。

 

聖ペテロはどんな人物だったのか?を知らずにいてもこの本は読めるので懸念は全くもって不要。ただ気になってしまった。しかし『第三の魔弾』に続き、なんて素晴らしい題名だろうか。『聖ペテロの雪』という二つの単語をただ繋げただけなのにこんなに想像力が掻き立てられるなんて。おらわくわくすっぞ。

 

あらすじ

病院で目覚めたアムベルクに、「あなたは5週間前に交通事故にあい、意識不明の状態にあった」と医師は言った。しかし、彼の記憶は違っていた。5週間前モルヴェーデという小村に村医者として赴任したアムベルクはそこで、亡き父の旧友フォン・マルヒン男爵と、彼の庇護下にある不思議な少年に出会った。男爵は生理科学者のビビシェと共に秘密の研究を続けていたが、彼女はアムベルクのかつての同僚で、彼が密かに思いを寄せていた女性でもあった。神聖ローマ帝国の復興を夢見る男爵の奇怪な計画に次第に巻き込まれていくが……

何が本当かわからない、語り手が信用できない本に魅力を感じる。勿論それを気づかせなくてもいいし、気づかせても面白ければいい。その信頼のできなさに不確かさに、人間らしさをむしろ感じる  記憶なんてすぐに形を変えるし、小説という形式でそれをやる異和感に惹かれる。

『聖ペテロの雪』は気づく。なにかがおかしい。特におかしいのは、わたしことアムベルクが思い慕っていたビビシェという女性。村で再開する以前の彼女と村で会ってからの彼女が違いすぎる。昔好きだった女で「もし再会したら……」という妄想をしたらこんな女性になるだろう。それほどの違い。彼女と一夜を共にしたことを誇らしげに話す、アムベルクは初心だ。また他にも粗が目立つ病院での回想といった程の文章だが、いつの間にか回想中つまり過去にこの病院での出来事を予つまり未来の出来事を予見していたりもする。また、英国王が男爵の元を訪れていたり。

男爵の夢は神聖ローマ帝国の復興という、夢を見るにしても途方もない、ムー大陸を発見するというくらいの夢。実現できると信じる根拠も男爵にあるにはあるが。しかもその着想はアムベルクの父からのものだという。この父に関しても、息子のアムベルクと男爵との見方に大きな乖離がある。

 

信頼できない語り手によって語られる、途方もない計画を企てる男爵と愛する女。ただただ奇妙だ。そのくせ神について朗々と話す彼らは羨ましくも思う。

なぜ神聖ローマ帝国復興を夢見るのか。それは帝国が世界の中心だったから、ということだ。動機は置いておく。その夢を実現する方法が”科学”。ここで科学が記憶の不確かさ記述の信頼のできなさに割り込んでくる。現代はいわば科学という宗教の時代。すべてが論理的に説明できる、という時代。論理的合理的な物と、これまで言葉を費やしてきた”記憶、夢”というものは相性が悪い。今、21世紀ですら解明できてない謎であるこいつら。この本が書かれた1933年に至っては水と油だったろう。その噛み合わなさに、きゅんときた。

ぼくにとってペルッツはきゅんきゅんポイントをガンガン抑えてくる恐ろしい子!であるようだ……。

読み終わった時に「結局これは夢だったのかそれとも本当にあったことなのだろうか」と考える。ぼくは本当にあったことだと思う。その方が面白い。でももし夢だとしても面白いのが悩みどころである。

間をとって、一部夢で一部本当っていうのはどうでしょう?ダメ?

 

 

聖ペテロの雪

聖ペテロの雪