『足摺岬』
寂しいのは自分をわかってもらえないし自分でもわからないから。理由は言葉にならずただ己の心の中で形を持たず、ふわふわとしている。
言葉にならない気持ちが涙になり慟哭になり、岬へと足を運ばせる。「死ぬ」ということは解放を意味するのだろうか?いや解放されていないからこそ自死を選ぶのではないだろうか。妥協できず頑固に考えを曲げないから死を選ぶ。
あらすじ
死を決意した学生の「私」が四国で巡り合った老巡礼との邂逅と、その無償の好意で救われる『足摺岬』
寂しさがみなぎる主人公たち。どの短編も世の中からはみ出してしまった孤独を書く。こんなにも寂しい短編たちは初めてだ。救われることはなくむしろ崖下へと突き落とされていくような人物。
仕方がない、と諦めの言葉が口をつく。「誰が悪いわけでもない」だからこそ苦しむし、もがく。
今の自分の状況は幸せなんだ、と思わされる。今の世の中は随分と優しくなったんだと。日本といえども昔はあり得た艱難。それを扱い、人はどう生きるかを書く田宮虎彦も寂しい人だったのか。
淡々とした筆致の中に心を抉るような『寂しさ』。どんな悲惨な状況も立場も、あくまで人となりを作るためで、必要以上に入れ込むことはない。
『足摺岬』でも好意に救われ自ら死ぬことはやめたがその後少しでも状況が好転したのか、と問われればぼくの読んだ印象ではしていない。
が、自殺しようとした心境を、その心持ちを一瞬でも老人と分かち合うことができたから決して幸せでなはない生活を送ることができたのだと思う。
自分の中にある業の背負い方は人それぞれだが、投げ出さない人たちだからこそ孤独になってしまうのか。