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狐が風鈴を鳴らす

本 映画 音楽 その他諸々の雑感を書き連ねるブログ

『こころ』時代性

都合三度目か、この本を読むのは。中学生で1回高校生で1回そして今大学生で1回。その時その時で感想は違うけれど、今回で始めて「やるな……」と思った。(何様だ)うーん、自分の未熟さを思い知るばかり。特に高校生の頃はこの本(てわけでもないが)バカにしていたからな。

 

・中学生の時

正直何を思ったか覚えていない。しかし夏目漱石作品で初めて読んだのがこの『こころ』だったはず。しかし印象が残っていないということは大したことは何も思わなかったし考えなかったのだろう。

単純に「遺書長い」程度だったと思われる。

 

・高校生の時

これが少々逸話というほどでもないがちょっとした話がある、といってもことは単純明快。『こころ』が学校の授業で扱われていたのだ。生徒全員『こころ』(新潮社の真っ白なカバーもの)を持っていた。学校で購入した本を生徒に配布、教科書として授業を進めていた。

現代文の授業で「はい◯ページ開いて」と皆『こころ』を取り出す。当時ぼくはそれが気に食わなかった。「小説の読み方は強制されるべきものではない、とくに文学作品においては絶対にだ……!」今ではそんなこと思っていない。いや、少しは思っているか。なんにせよ、そんな青臭く若々しい思いを頭の中に飼っていたぼくは当然授業を真面目に受けません。適当にやりすごし、テキトーに読んだ。「俺は俺の読み方をするぜ」←阿保

態度は感想にも現れる。「なんだよ先生バカかよ」「Kもなんで自殺すんだよ、バカかよ」「奥さんかわいそうだなオイ」「遺書長すぎんだよ。こんなもん郵便で送れんのか?」酷いものばかり。

しかし高校生のぼくはこれでいいと疑っていなかったのだからそれも吃驚。授業で扱っているからといって読み方を強制しているわけではないし、ただガイドラインを示しているだけってこと……今ではそう多少大人じみた考えを持てる。それが良いか悪かは別にして。でもやっぱいやだな!

 

と読み返すまでは『こころ』については散々な意見しかもっていない。

じゃ今回はどうなのさ。

 

あらすじ

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品

 

まずどうして高校でこれを教材としたのか、その理由を測ってみる。

1つ、著者が日本文学史上において錚々な名を残していること。

夏目漱石、と聞けば日本人は誰でも知っているだろう。かつては千円札の肖像にも使われていたのだから。彼が残した著作は今もなお多くの人に読まれ、影響を与え続けていると思われる。最近では『門』が朝日新聞紙上で再連載されていることからもその存在の大きさが窺い知れるものである。

他にも『三四郎』『坊ちゃん』『吾輩は猫である』という代表作は今でも名高い。これは文学史を勉強する上でもとっかかりになるので、教育現場で扱うのにふさわしかったのではないか。また日本人だったら夏目漱石の1つぐらい読んでいて欲しかったのだろう教師たちは。

2つ、三角関係という内容と高校生という年齢

授業で扱うから内容が教育観点からいって一応ふさわしくなければならない。かといって退屈な内容だったら生徒は読まない。その点、この『こころ』はなかなかふさわしい。端的に言えば三角関係を扱っており、そこそこ楽しめもするが、その表現と文体は終始落ち着いており、恋愛ドラマにありがちな際どいシーンなど一つもない。ただ悔恨と罪悪感、無邪気な慕情が描かれている。

思春期真っ只中な高校生にぴったり。

3つ、平易な言葉

これは2つ目であげた文体とも少々関わってくるがとても平明な言葉で書かれている。そりゃ勿論、出版する際に旧かな遣いを改めたりはしているが、それを差し引いても読みやすい。難しい言葉なんて使われていないし、難解な比喩があるわけでもない。使われててもせいぜい”吝嗇”程度だ。ここで”黠児”だとか”緘黙”だとか使われたらたまったもんじゃない。読む気が失せるだろう。授業で使ってたら。

高校生が読むのにちょうどよいレベルといったら漱石に失礼な気もするが、そうだったのではないか。

 

で、感想だ。

すごくないところがすごい。

あらすじにも書いたがこれは『孤独な明治時代の知識人の内面』を描いた作品であり、一つの時代の終わりを描いた作品だ。単純な面白さ、泣いたり笑ったり怒ったり、とあらゆる手で感情を揺り動かしにくる娯楽作品と比べるとどうしても地味になる。でもそれでいいのだ。そういうのじゃないから。

自分を心理的に解剖する後半の遺書ではその様がよく観れる。前半はでは他人の目=先生を慕う学生の私、からその様を間接的に書く。乃木大将と一緒に殉死せずに次の時代を担う若者の目線、今までの日本とは違う人や思想を抱くであろう人だ。といっても彼も明治時代を生きた人だ。だからこそ先生に近づくし、知りたいと思う。そして単なる『明治時代の孤独な知識人』が彼によって自らの過去を語ろうとするのだ。もし彼がいなかったら先生は過去を胸中に秘めたまま死に、この遺書は生まれなかった。彼がいないまま、この過去を語ろうとすればそれは重みを失う。

あくまで一時代を生きた一人の人としての先生を浮き彫りにしたところがこの『こころ』の凄さだ。そして絢爛豪華な修飾を用いないのが凄さだ。冷静に自分を腑分けする冷徹な視線  そんなものが華やかであるはずもなし。

明治という時代の終わりを『こころ』を通して少しは感じることができた。

が、すでにその価値が認められている作品に自分の感想を持ち込むのは中々難しい。面白いか面白くないで言えば『どちらでもない』が正直なところだ。だけどもうその域を超えたところにこの作品はあるんだよなぁ。

過去を探るための資料であるし、漱石自身に迫る資料でもあるし、時代の写見でもある。そういう意味で言えば僕は十分楽しめたし面白いと思った。本道を外れての意見だと思うが、最近歴史に興味を持つ身としてはそちらからの視点が多くなる。

・明治時代

明治時代は始まりから峻烈なものだった。大政奉還だ。今まで徳川家にあった権力を天皇にお返ししたのだ。そこから近代化の道が始まるが、山あり谷あり一筋縄ではいかない。反発があり、内乱があり、そして戦争だ。

いくら日本のためと頭でわかっていてもそう簡単にはいかない。

悪く言えば200年近く旧態依然とした歩みを進めてきたのだ。いきなり  明治時代は約45年間だが、その半世紀にも満たない間にどれだけ急に変化したか。

そんな激動の時代を、1人の知識人はどう感じどう消化しどう答えを出したか。それがこの『こころ』ではないだろうか。

『こころ』が書かれたのは1914年で、大正に入り2年経つが、それだけの時間が漱石には必要だったのだろう。

 

うーん、やっぱ娯楽作品と純文学って分けて考えるべきか。でも今じゃあその区別もつきにくいし、分ける必要あるのか?と言われれば頭をひねる。

自分の身に落としてみると、馴染み深い地名が多く出てきたところに親しみを感じた。今の本郷駒込神保町あたりか、頻出しているのは。市ヶ谷の牛込あたりにしても自分の生活圏内である。神田明神の前の坂道万世橋に今では東京ドームになっているらしい砲兵工廠。随分といったことのある場所。彼処も出てきた此処も出てきた。雑司が谷にしたって最近近くにいった。そこは素直に楽しかった。小説の中に自分を入れ込むとことができたというか。うーん一度でいいから書生姿を模してみたいな。

 

高校生の時とは違う感想を持った。そりゃそうか。

 

こころ

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