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『私の殺した男』また、殺した男に私は

あらすじ

第一次世界大戦が終わるも戦争中に殺した男のことが忘れられないフランス人のポール。彼の死体の傍らには恋人に宛てた手紙があった。懊悩するポール。人を殺した罪を戦争のせいにすることができず、自らの罪だと常に悔いる。

そしてポールは自分の殺した男の実家のあるドイツに行く。私が殺したと告げるために。

 

片端の足から見える戦争終結記念日のパレード。いきなりどぎつい。両足あれば本来ならば見えないはず。しかしローアングルから下半身だけ映し、片足がなかったため見える賑やかで華やかなパレード。これはすごい画だぞ。

 

そして教会でポールが神父に罪を告白する場面に移る。「私は人を殺しましたけれど殺人者ではありません」唐突な罪の告白にギョッとする神父、しかしよくよく聞けば戦争中のことだ。懺悔室に彼を誘う。「どうしてもあの彼の目が忘れられないのです」神父は言う。「忘れなさい、神はあなたの罪を赦すでしょう」

ええ?忘れていいの?と私思いました。それはポールも同じだったのか、躊躇い、さらに神父につっかかります。そして神父は「あなたは義務を履行したのです。義務だからそんなに苦しまなくてもいいんですよ」この神父何を言っているのだろう?ちょっとよくわかんない。「義務?義務だって?人殺しが義務だって神は言うのか?」ポール逆上。つかみかかる勢いで神父に詰め寄る。

しかしこれはどうなのだろう。字幕では”義務”となっていたけれど、二人はguiltyという言葉でやりとりしていた。それはどういうニュアンスだ?ちょっとわからない。

ポールは殺した男の家に行くべきだろうか?と神父に聞きますがこの神父もう面倒臭がって「はいはい行った方がいいんじゃない」と厄介払いをする体。そしてポールはパリからドイツへ。

この冒頭の教会のシーンは印象深い。戦争が終わるも自分のしたこと、殺人から逃れられない男と、彼に罪はあるにはあるのだが赦しを求めている男にそうとはいえず、(彼だってやりたくてやったわけではないし)戦争中のことだからしょうがない、と諦観の念を抱いているように見える神父。

二人の齟齬を味わう。たとえ戦争中のことでもVS戦争中のことだからしょうがない、の争い。どちらが正しいと一概にいえないから難しい。

 

そしてドイツに行くポール。フランス人とドイツ人、戦争相手同士憎みあっている、戦争が終わるも遺恨は残るドイツの町に(どこでもそうだと思う)フランス人が降り立つことでちょっとした悶着が起こる。

この映画のいいところは、日常と戦争が水と油のように乖離して、一緒にあるけど違和感があるところだと思う。すごい現実っぽい。自分たちが暮らしている範囲では戦争の影は残ってないけど、ふと気づくと憎しみや悲しみが残っている。一見平和な日常と、奥に秘められた負の感情。戦死した息子の部屋、町の肉屋、噂話をするおばさんたち、墓参りをする喪服の婦人、町人が食事をするレストラン。とにかく反発し合ってる印象をすごく受けた。

テーマは重いものだが、その中にルビッチの喜劇センスがちりばめられて、笑えるシーンもある。笑っていいのか?と思う私。

「もう戦争は終わったのよ!」しばしば言われるこのフレーズ。いつまでも戦争という災禍に囚われてはいけない……。戦争が罪深いのは人災だということだ。天災なら人は諦めがつく。誰にもどうすることができないから。しかし人災は違う。幾千もの”もし”を考えてしまう。

ポールは「私が殺した」と言ったのか、言わなかったのか。私が殺した男の許嫁、家族、家に囲まれなかなか言い出せず悩み続けるポール。

ポールは戦争という大きな渦の中でさえも自分のした行為については自分の責任だと思っている。戦争のせいだ、と転嫁することもできるだろうに。真面目な人ほど苦労するのか、でも間違ってはいない。だから辛くもある。

彼が出した答えは……。

そしてポールが来たことによって彼が殺した男、ウォルターの家族も戦争についてもっと考えるようになる。憎しみと悲しみだけが先行していた戦争について。

1932年公開の映画だがこの10年後にはすでに第二次世界大戦が始まっていることを考えると虚しい。

 

 

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