伽藍が白かったとき、とはどんな時代だったか
著者はル・コルビジュ。建築家。建築界では有名な人で建築やってる人で知らなかったらおそらくモグリでしょう。たぶんね。
建築家でありながら本も多数残している筆まめな人でもあります。「本を書くのは大嫌い」と本人は言っているらしいがそれでも本を書くのだ。さて何のためにだろう。
この『伽藍が白かったとき』は建築、つまり建物についての考え方の本だけれど建物で街を作り、街は人を活かす場所。そう繋がっていくので必然人について語ることにもなります。あくまで人が街を作り、人は街に踊らされてはいけない。コルビジュはこんなことを言う。
19世紀後半から20世紀にかけて人の技術は大きく進歩した。産業革命がイギリスで起きてからその速さは疾風迅雷のごとく。それまでの人の歩幅からしたらあまりにも急すぎる進歩の仕方でもあった。人は立ち止まることをせず、技術を活かすことを考え実行した。それは一種の破局でもあった。
旧態依然した街並みを改善できる余地がありながら「古き良き格調」と放置し、ましてそれを留めようと修復するパリ。
新しい技術をもってより人が過ごしやすい環境を追い求め、摩天楼が林立することになったニューヨーク。
どちらが良いか。
コルビジュはニューヨークにその価値を見出す。
中世伽藍(カテドラル)が白かったとき、ヨーロッパは真新しく奇跡的で気違いじみて向こう見ずな技術の絶対的な要求に応じてあらゆる手仕事を組織し、そしてその技術の使用によって、思いがけない形態のシステム 精神が千年来の伝統を見捨ててためらうことなく文明を未知の冒険に投げこむ形態のシステム に到達したのであった。
と、この文にあるようにコルビジュは人が新しく創造することに価値を見る。伽藍は確かに美しいが、それはその当時の人のものであり、今に生きる私たちのものではない。私たちは創造しなくてはならない。繰り返し彼はいう。
伽藍が建てられた時はその時の進歩的な考えや思想に基づいて建てられたのだろう。しかしそれはその当時、過去の話である。私たちは今を生きている、と。
そりゃその通りだ。
よってコルビジュは数秒で60階に到達するエレベータ、計算され尽くした空調システムに創造の精神を見出す。わかりはするけれど、古いものでも美しいものは美しいでいいんじゃないの?
それに固執するなってことをいっていて、真っ当至極な意見でもあるけど。こう、なんだかなっていうものがオレの胸のうちにあるよね。
まあ時代を経て出る美しさっていうのか、そういうのがあると思う。木造建築が多かった日本と石造りが多かった欧州では考え方の差は出て当然か。わびさびって相当独特な考え方なんだろう。
あくまで人のうちに宿る精神に重きを置いていて、建築は人を豊かにせにゃならん。と言っている。物質的な面でなく精神を。
今の東京見てると精神的に豊かになっては……いない。少なくとも私にとってそうは思えない。コルビジュのせいではないのはわかってるけど。どんだけ路駐多いんだよ!という話。
その解決策をすでにコルビジュは提示していたところが恐ろしく素晴らしい。超集合住宅を郊外に作ってしまえというのがそれ。いまでもあるけどもっと大きい規模で。でもこれは日本では実現不可能だったんじゃないかな。どうなのそこんとこ。
また交通整理。これもまた当たり前すぎてなかなか気づけない。そもそも速度が違いすぎる車と人を同じ平面上で扱っているのが間違いだという。時速5キロの歩行者と遅くても時速40キロの車。そりゃそうかも……。いまの道路は昔の名残、馬車等を利用していたころの残滓。馬車のおおよその時速は10から15ぐらい?それならなんとかなっていたのだろうか。
歩行者にとってちょうどよい横断歩道も車にとってすれば多すぎる。コルビジュは言う。
なるほどなるほど。目から鱗だ。
精神的な豊かさに尺度はない。だからこそやりがいがあるし難しくもある。建物についてそこまで考えたことなかったな。いま自分が住んでいる家ですら建物なのに。人と建築は切り離せない。当たり前のことすぎて気づかなかった。
建築学も面白そうだな。隈研吾の赤城神社はすげーと思ったけどそのくらいしか。
これ神社だよ?すごくね?現代の神社ってこうなるのねー。
題名に惹かれて買ったけれど、想像以上にいい本だった。