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わたしを離さないで

Never let me go=わたしを離さないで

 

カズオ・イシグロの小説。わたしにしては珍しく、読んだ本  つまり”わたしをはなさないで”について他の人と話す機会があった。珍しいではなく初めてかもしれない。話の核心に触れていくので未読の方はご注意。

 

あらすじ

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護管と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく  

 

つい最近まで日本ではドラマ化されていた。綾瀬はるか、氷川あさみ、三浦春馬の三人が主要三人のキャスト。面白いのかどうかは見ていなのでわからないけどわたしが抱いていたイメージと近いキャストだった。

 

ヘールシャムという施設が物語の大きな舞台で、三人のアイディンティを育んだ場所。その施設にいる子供は”提供者”と呼ばれている。”提供者”の役割=求められた時に速やかに臓器を提供すること。つまり体をあげること。そのためには日頃から体を清潔に保たなくてはならないので不健康、とみなされるものは禁止。”提供者”は提供をするために生まれ、提供をして死んでゆく。これが決まっている。そのことを幼い頃から彼らは知っているのか?

知ってはいないが、感づいてはいる。暗にほのめかされたり、周囲の目で察したり、知っているとは言えないがわからないとも言えない。

そんな環境で育てられた子供ってどうなるのだろう。

キャシーというヘールシャムで育てられた女性が主人公で、彼女が過去を思い返しながら記述していく。彼女の親友のルース、そして大事な男の子トミーがこの物語を動かしていく。

キャス、ルース、トミーは普通の子供。泣き笑い怒り感情を表に出す。提供するという定めを除けば。彼らの物語はわたしにも覚えがあるようなものも多い。

お気に入りの場所、お気に入りの先生、ちょっとしたいじめやケンカ。友達に対して見栄を張ったり、嘘をいってしまったり。

マダムの家からの帰り道、トミーの咆哮には遣る瀬無かった。

 

彼女たちはクローンであるが立派に人間。クローンと人間の境界はどこにあるのだろう。生まれ方は確かに自然なものではないけれど、そもそも自然な生まれ方ってどのようなことを言うのだろう?生殖行為をしないで生まれた命のこと?人が工夫を凝らし、自らの手で生命を生み出すことすら可能になった。その営み自体は否定されるものでない、今の社会に於いては、がその扱い方をどうすればいいのか問いかけている小説でもある。

 

こういう話題になると宗教界はどんな反応しているのか気になる。

反対であることはほぼ間違いないのだが、ちょいと調べてみた。

参考にしたのはこちらのページ。ローマ教皇庁公文書。

http://cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/clone/clone.htm

やっぱり反対。生殖目的クローンなぞ論外である。治療目的なら一考の価値はある。ふうむ、全面的に反対ではないようだが、文意からはやっぱり否定的な印象を受ける。”杯性細胞由来の=人となれる受精卵の細胞、から研究を行うことは断固反対である。しかし成体幹細胞=人となった後の体から取れる細胞、ならまあ研究してもいいよ”というのが大意だろう。しかしこれ国によって、両方ダメと言っているのと治療目的ならオーケーと言っている国があるらしく、意見の統一はされていない。ましてこの文書自体2004年のものなのでどこまで現状を反映している意見なのかもよく分からない。

 

少し話が物語から逸れてしまった。こんなこと考えさせられるけどあくまで1つのお話として読めるもので、決して難しいものではないです。むしろ文章はすごく平易です。

主人公のキャスは少し一歩引いたところからものを見る女の子でした。親友のルースは少々見栄っ張りで、わたしがわたしが、と前に出がちな女の子。トミーは癇癪持ちでみんなから避けられていたけれど、成長するに従って癇癪を起こさなくなり、みんなと仲良くするように。女2人と男1人。ちょっとした三角関係になります。本人たちも自覚が薄いままにです。

ルースが、トミーと仲良くしているキャスを見て、2人がくっつく前にトミーに手を出したというただそれだけです。言い方が野暮にもほどがあるけれど。その恋愛感情なのかそれともただの友情なのか混じり合って分からないところに、”提供者”という運命が絡んでくる。この具合が面白い。あとどれくらいわたしたちは生きて行けるのだろう?愛し合っていられるのだろう?疑問を抱きながら生きてゆく提供者。

この辺りすごく人間臭いです。いえ、人間です。まさに人間。

一種のディストピア小説として読めるかもしれないけれど、”提供者”にとってのディストピアなんだよなぁ。今のわたしたちみたいな人間からすれば全然そんなことはないわけで。それが逆に恐ろしいか。

 

カズオ・イシグロは丁寧、と読む度に思う。それはあらゆることまで書いているという意味ではなく、ただその印象を受ける。言葉遣い?うーん、それもあるかも。けれどそれだけでなくて、作者自身がこの物語を書くにあたっての態度、が文章にも滲み出てるんじゃないかなぁ。以前、『カズオ・イシグロの文学白熱教室』を見た際に「この人は紳士だ」そう思った。やはり“書く”という行為はその人自身を映し出すのだなぁ。文は人なり!

そんな丁寧な筆致で描かれるヘールシャムは、そのエゴイズムな役割にもかかわらず温かみがある。幼い頃の思い出、そこで出会った人たち、過ごした時間、キャスはその1つ1つを大事にしている。ヘールシャムという施設は他の同じような施設と比べて特別な位置にある施設で、それがまた彼女たちに大きな希望を抱かせる原因の一つでもある。

この希望は最後には潰えてしまう。もうすぐ提供する運命にある彼らはそれっぽっちのことすら望めないのか。そう思ってしまう。「あなた方は、駒だとしても幸運な駒ですよ」

この本は提供する側から書かれている。提供される側については触れられることは少なく、得られる情報もほぼない。だからだろうか、提供される側の社会はどう受け止めているのだろう?と疑問が湧いてくる。提供される、そのことについて何も思わないのか、提供する人に対し何も思わないのか。

わたしたちも考えさせられる。

 

 

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)