常々感想記

本 映画 音楽 その他諸々の雑感を書き連ねるブログ

徒然なるままに 「クナウスゴール語るー『わが闘争 父の死』、ノルウェー文学、そして世界」

2016.03.04 18:56

開始時刻寸前に目的地に到着。その割に席が埋りきっておらず、(隅っこは埋まっているが真ん中の方は人と隣あわせにならずに座れてしまう程度)一息ついていそいそと座る。オーロラホールという大仰な名前とは裏腹に、小ぶりのホール。しかし高さはあって、狭さは感じさせない。

上着を脱いで座り直す、と最前列の中央に2人座るのが見える。あれは、もしや……

カール・オーヴェ・クナウスゴール氏と金原瑞人氏じゃないか?

クナウスゴール氏、大きい。かっこいい。体が大きいというだけでなく、服装もバッチリ黒で統一されており落ち着いた雰囲気を醸し出しているので、いうなれば裁判長のような威厳を備えつつも、浮かべる表情は人前に出るのが苦手なはにかみ屋さんのような照れを感じさせるものでその落差に好意を寄せずにはいられない。しかもかなりのイケメンである。

https://pbs.twimg.com/media/CbZmaQ-XIAAOcg9.jpg

金原さんに関してはもう小さい頃から、訳された本をずっと読んできたのであの人がそうなんだ、と思うと一周回って恐れ多くなってしまった。

あわあわしているとノルウェー大使館の方の前口上もいつの間にか終わり、いよいよです。

今回のこのインタビュー形式のトークイベントは東京国際文芸フェスティバルに関連して開催されたもののようです。そんなことは全く知らなかったんだけれども、気になっていた本の作者と金原さんの2人となれば行くしかないでしょ!

恥ずかしながら北欧文学には疎く、”トーベ・ヤンソン”しか名前が浮かんで来ません。クナウスゴール氏が今回語る著作「わが闘争 父の死」も読みたいとは思っていたけれど、学生には手厳しい価格(4000円くらい)なので手が出ず、読んでいません。このイベント(無料で参加できた)で、「読みたい!」と思ったら買おう、ちょっぴりさもしい根性での参加。

作家の話は聞くだけでも面白いので大丈夫でしょう。大丈夫だよね?

 

・「クナウスゴール語るー『わが闘争 父の死』、ノルウェー文学、そして世界」

 

(クナウスゴール氏と金原瑞人氏がこのとおりに発言したわけではありません。)

 

金原さんの「この本を読んでいると、若いころはモテなかったようですが……」という茶目っ気ほとばしる問いと「その通りです」というクナウスゴール氏のやりとり、今はモテてるってことかしら?からスタート。

 

「わたしは完璧主義だから書こうと決心してから4年間は筆が全く進まなかった。父の死について書きたいとずっと思っていた」クナウスゴール氏。

なるほど。

「この作品、この一冊だけでも(日本で今現在刊行されているのは『わが闘争 父の死』全6冊のうちの一冊目のみ)500ページ超の分量があります。これを3(?)年で書き上げたそうですが約3000ページ。1日に20ページほど書くこともあったそうですね」金原氏。

「1日5ページは絶対に書く、と決めてから取り掛かった」

そのとき思いついたことを思いついたままに書いた本らしく、構成なんてうっちゃって思考が彷徨うに任せて書いた本とのこと。”良い文=good  sentence”を書こうとすると筆が全く進まない。流麗な文、クレバーな文、かっこいい文を書こうとすると書けなくなる。「憧れているけれど」。だからこの本には”悪い文=bad sentence”しかないという意の発言をあちらこちらでしているそうだ。だから1日20ページほど書き進められることもあった、と。それにしても1日20ページ、ものすごい早さ。かっこつけようとすると立ち行かなくなるのは文章でも同じってことか。”悪い文”とはどんな文のことだろう?すごく気になります。

原語のノルウェー語で読むと、計画を立てずに書いていることが一目瞭然らしく(この本の訳者岡本健志氏と安藤佳子氏もお客さんとして訪れており、途中「訳してみてどうだったか?」という質問を金原さんがぶつけていた。「それを残したまま訳するのに苦労した、いやできなかったかもしれない。”悪い文”を”悪い文”のまま翻訳できなかったかも」との発言を岡本健志氏はされていた。)だから「わたしはこの本を読みたくないし、読んでいない」とクナウスゴール氏は言っていた。「恥ずかしいし」

ウワァァ、当たり前なのだけれど作家さんも人間なんだなぁ、と今までで一番強く感じた。「この本はわたしの裸を見せているようなものだ。わたしは普段そんなことは絶対しない。この本が出版されるなんて思ってもいなかった」ノルウェー文学賞、ブラーゲ賞まで取ってしまっているのに……。そんなに卑下するんだ。

後々で、「こんな本で文学賞を取ることは馬鹿にされているようにも感じてしまう。ハハハ」と言われていました。それほど自分では”良い文”を書けなかったということなのでしょう。でもぼくは”悪い文”のまま書き進められるということがまずすごいと思います。「”良い文”を書こうとするということは自分を良く見せようということ」自分を良く見せたいと思う、それはなかなか避けがたい欲求です。ええかっこしたい!それを押さえつけて書き上げるとは、あっぱれです。「”良い文”を書こうとするとかしこまってしまう」コレ、結構耳にすることが多いですがクナウスゴール氏も言っていました。

この時点でぼくはこの本を買うことを決めていました。

著者が自分の本のことを貶しに貶しているから逆に気になってしまいます。”悪い文”、思いつくままに書かれた本とはどんなものなんだろう。

盲目的、違う場所へ行こうとしている……。

 

金原さんの質問に端を発したプルーストへの言及。どんな質問だったか忘れてしまいましたが、それに対するクナウスゴール氏の発言。

「わたしが”失われた時を求めて”を読んだ時、ノルウェー文学はミニマリズムだった。つまり文を書いて削ってゆく、ということをしていた。この本は違くて、マキシマリズムだった。一文が異様に長かった」そのとおり。かつて第一編”スワン家の方へ”だけ読んで断念した経験があるぼく。これだけでも日本語で700ページぐらいあった、はず。本当に一文が長いんだよ、ちょっとうんざりしてしまうほどに。だから最後まで読むことはできていないのだけれど。

ミニマリズムとマキシマリズム、意識したことあまりないな。でも多分エルロイとかがミニマリズムでフォークナーとかがマキシマリズムなのかな?エルロイはまた違うか。違うな。

「これを読んで、わたしは本を書こうと決心した」小説家になりたいとずっと思っていたクナウスゴール氏が24,5歳の頃この本を読んで、踏ん切りがつき自分で書き始めたという。そう聞くともっかい頑張って読んでみようかなと思った。金原さんが日本人でいうと「谷崎とか泉鏡花」と言ってたのも印象深い。ぼくはそんな風に思ったことないなぁ。谷崎しか読んだことないけど。そういえば最近昔の作家でアンソロジーを編んでるよね。谷崎なんかまさにそうで角川文庫で何冊か出ているのを書店で見かけたなぁ。

またフローベルの”ボヴァリー夫人”にも触れ、素晴らしい本と言っていました。「日常を蒸留している 」と。

そして新作の話。

今書いているのは「日常の些事に目をつけて書いている」。例えば、で挙げられたのが歯ブラシ。歯ブラシの形から入り、歯磨きをしなかった、しろと言われた思い出。初めて父親に嘘をついたのが歯磨きをしなかったということだった。発展。しない、という自由。する、という自由。物事には意味があり、意味が重なり合っている。それを書き出している、というようなことを言っていたと思う。この辺り定かでないので、あまり信用ぜずに。ニコルソン・ベイカーみたいなこと?と勝手に思う。細部を掘り起こし、意味を抽出する。その意味は複合的で重層的であることがあり、それを発見することが目的、といっていたみたいだ。

 

悔しかったのがやっぱり英語ができないこと。簡単なフレーズ、短い発語ならおぼろげながら意味を推すことができるが少しでも早口になったり長くなったりすると白旗。通訳の人がいたから困りはしなかったけれどそれでも悔しかった。クナウスゴール氏が英語を話している時に会場の人が笑う。取り残されるぼく。悔しかったな、コンチクショウ!

このトークセッションの後、サイン会があり、せっかくの機会とばかり会場で本を買い、してもらったが「Thank you」としかクナウスゴール氏に言えず、高校生の時に英語で赤点を取った以上に悔しかった。英語がわかる、話せるようになりたいとの思いが強くなった。間近で見て、それにしてもハンサム。かっこいい。

しかしクナウスゴール氏のサインはとても簡単なもので、「話すのが苦手でこういう場が苦手。何回か重ねるごとに上手になったけどね」と言っていたのを思い起こす。このサインもだからなのかな?話している間中、水をしきりに飲んだり、足を組んでいたり、前襟を体を覆うようにしきりに手で動かしたり。クナウスゴール氏は人見知りなんじゃないだろうか?とふと思う。

 

ぼくも思いつくままに書いてみましたがコレ楽しいですね。けど確かに恥ずかしい。

他にもいろいろお話聞けて楽しかった。来てよかった。

 

「文学に中心はない」

「あるとしたら読者の中にだ」と言っていた。

この本を読むのが楽しみです。

 

わが闘争 父の死

わが闘争 父の死