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正義と法の狭間で

浜尾四郎という推理小説家がいる。

推理小説家であると同時に犯罪小説家でもある。この二つは重なりやすいし、現に大抵の推理小説家は犯罪小説家である。この二つの違いは何か。推理と犯罪。推理小説は”謎”を解明する小説で、犯罪小説は”犯罪”を解剖する小説。その推理小説の”謎として取り上げられることが最も多いのが、「誰が殺したか」だ。殺人は立法国家では違法、倫理に反する行為として摘発の対象である。そんな堅苦しく考えなくても、殺すということは罪を犯すということであり、それすなわち犯罪。”謎”が犯罪だから、重複するのも道理。

この浜尾四郎という作家はまさに推理小説家であり犯罪小説家である。

正義とは何か、法とはどうあるべきか、を問い続け作品を残した。彼の”元検事で現役弁護士”という経歴からすればそれは日が東から昇るくらい当たり前。

読み応えは抜群であった。

創元社推理文庫で刊行されている日本探偵小説全集の浜尾四郎集を読んだのだが収録作最初の小説の題名が「彼が殺したか」だからね。(今からネタバレしますので注意)

 

 

 

 

彼は殺してない。だけども彼は極刑に科せられる。それは彼が望んだことでもあるのだけれど、何故そうなったか、何故それが出来たのか。無実の人間が罪を犯したとされ、死刑になる。それは法律が不完全だからだ、と。法律が全てだと思っている奴らに目に物見せてやろう、というのが彼の動機の一つ。法律は人間が作ったもので、決して完璧でない。そのことをひたすらにこの作品集で浜尾四郎は言ってくる。

また、「殺意があり、現にその殺意の対象が死んだとき、その人は自分が手を下したわけではないとしても罰せられるべきか」。殺してやりたいほどそいつを憎んで、計画も立てはしたが実行はせずに胸の内に沸々と秘めていた思い、それが不意に実現してしまったら、計画を立てていた当人はどうなのだろう。

加えて、「殺人計画を立て、実行しても、殺そうと思った人物が死なずに他の人間が死んだとき、その人はどういった罪を負うのか」。殺人罪か、それとも過失致死か、そもそも罪に問われるか。わからない。

大岡裁きや、殺人の素養をしこまれたと言い張る話もある。どれも正義と法を扱ったものだ。ぼくも考え込まされた。人が人を裁く、ということに豆粒一つほどの疑念を抱いたことのない人はこの読書経験を機に、考えたことのある人はより突き詰めて考えることができるだろう。

犯罪小説家としての浜尾四郎について触れたが、この全集には最後に長編「殺人鬼」があり、これは文句なしの推理小説。「真の探偵小説は理論的推理による真犯人の暴露でなければならない」との持論を実践したのがこの作品だそう。持論みたいにきっちりかっちりしている小説。少々犯人の動機に不満は残るし、犯罪のレトリックに関しては好みではなかった。しかし持論の如く、論理的演繹から犯人はちゃんと割り出せる。しかし読む前にヴァン・ダインの”グリーン家殺人事件”は読んどくべし。気持ちいいほど真犯人のことについて触れているので。

先述した持論を持つ浜尾四郎、作品数は同年代と比べて多くない。妥協を許さぬ人柄で、かつ法律にも精通しているので少しでも曖昧な部分があるとその作品が書けなくなってしまったらしい。もったいない。40歳での逝去ということもあるだろう。

漫然なやりかたに抗した浜尾四郎の小説はとても読みやすいので驚いた。これも彼の信条のなせる技か。

 

日本探偵小説全集〈5〉浜尾四郎集 (創元推理文庫)

日本探偵小説全集〈5〉浜尾四郎集 (創元推理文庫)