狐が風鈴を鳴らす

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白痴という差別用語?

イディオッツ。酷評される一方絶賛されもする”映画”。

 

監督はラース・フォン・トリアー

この作品はきりきりと胸が痛くなる。

 

あらすじ

本作は、すべてロケのみで行われ、カメラは手持ち、人工的な照明は禁止条件で撮影する“ドグマ95”という映画監督集団による実験的プロジェクトの第2弾作品として作られた。カレンは立ち寄ったレストランで奇妙な一団と出会う。口からよだれを垂らし、訳のわからない事を叫ぶ人々。レストランから追い出されそうになる彼らをかばうカレンだが、これはすべて白痴を真似たデモンストレーションだった……。

 

 

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見苦しい。映画と呼べるものではなく、ホームビデオのよう。彼らの日常と主義、そして相対している”中流階級的生活”があけっぴろげに晒される。

彼らは何故白痴を演じるのか、なぜ一緒に生活しているのか。そして何故彼らは袂を分かたなければならなかったのか。

 この監督、映画を撮ろうとしていない。映画を生もうとしている。

撮ろうとするとそこにはからなず意図が入り込む。それを嫌ってラース監督はあり得ないほどの長回しや、カメラも小さくして演技をさせないように工夫をしている。俳優たちに演技をさせるのではなく、演技(演技と言っていいのか?)が自発的に生まれるように仕組まれている。

必要最低限の筋だけ作り、あとは眺めているだけ。監督としての仕事をしないこと、演出家や脚本家を”彼ら”に介入させないことがこの映画での監督の仕事。それが映画としていいものになるかと言ったら、自明の理で、なるわけがない。

画面は観にくいし、ブレブレ。しばしば”彼ら”の挙動を撮れていないことも。

そんな手法で創られる作品とは一体何なんだろう。

白痴を演じる若者の集団をずっと追う。彼らは楽しかった、幸せだったと言う。もう失われた時間を惜しんで、回想する。もう仲間には会いたくない、と言う。彼らにとってこの集団は何なのか。

それはいまのぼくにはわからない。その時間を共有していた”彼ら”にしかわからないものなのか。この集団を最後まで大事にし、守ろうとしたカレンはどうなったのか。カレンは、自分の家庭でも白痴を演じようとするが……。

 

この作品を観ると、自分の偽善っぷり、いや見て見ぬふりが浮き彫りになってくる。白痴を演じることで、白痴への差別や嫌悪は露わにされる。白痴でない人が、白痴を演じて白痴のように扱われ、敬遠されるとどう感じるのか。

ファシスト野郎!と映画の中でリーダ格の青年が裸になり、道に飛び出しながら繰り返し叫ぶ。バカみたいと笑うのは簡単で、自分ならしない、ということも容易だ。でもそういうことじゃないのだ。それは違う。

この作品に参加したひとたちには感嘆の念を抱く。ただそれだけで凄いと感じる。ラース監督自体”奇跡の海”という国際的に高い評価を得た作品の次にこんなアナーキーなものを撮るというのは凄い。

映画としてはなっていない。正直に言うとかなりつまらないと思う。けれど映画という物自体誰かが枠に嵌めるものではない。だから僕の「映画としてはなっていない」という評価も当てにならないだろう。

強いて言えるならば商業映画としてなっていない、か。

しかしぼくに強烈な印象を残した作品。