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バレエ・メカニック

 

あらすじ

造形家である木根原の娘・理沙は、九年前に海辺で溺れてから深昏睡状態にある。「五番めは?」―彼を追いかけてくる幻聴と、モーツァルトの楽曲。高速道路ではありえない津波に遭遇し、各所で七本肢の巨大蜘蛛が目撃されているとも知る。担当医師の龍神は、理沙の夢想が東京に“砂嵐”を巻き起こしていると語るが…。『綺譚集』『11』の稀代の幻視者が、あまりにも精緻に構築した機械仕掛の幻想、全3章。

 

最初の一段落でグッと、心を掴まれる。

年齢不詳の美人妻を療養所に閉じ込め、若い愛人たちのアパートを転々としている。君を掴まえたければ、携帯電話を鳴らし続けるほかないが、気の乗らない呼び出しに君が応じるはずもない。そのくせ所持金が乏しくなると画廊か出版社の重役を呼びつけては強請る。商談は退屈だ。話がそちらに向かいそうになると女性か少年を席に呼ばせ、その方を抱いて場を逃げ出す。先生は燃費の悪いクラシックカーのようです、などと背後から嫌味を云われもする。高く売れ。そう君は頭の中で云い返す。君は作品の値上がりを拒否しない。数量限定のミニチュア製作にも協力的だ。それらを利用して大金を稼ぐことが彼らの職務で、君の職務は天才であり続けること。

 描写の省略がいい塩梅。そのくせ展開されるのはこの世のこととは思えないこと。

出鱈目が出鱈目でなくなり、当たり前のものとして語られる。現実が現実を超えて、みんなを覆い尽くす。解説で柳下毅一郎特殊翻訳家とここでも称している)が”これはシュルレアリスム小説だ”と言う。

シュルレアリスムとは現実の中に、現実以上の現実的な瞬間を見出そうとする美的運動。何を言っているかわからねーと思うが、安心してほしい。ぼくもわからない。しかしシュルレアリスムの作品と言われているものを見たり読んだりすれば肌で分かるのではないか。ぼくの好きなモノはマグリットの”野の鍵”である。あとロベール・デスノスの”亡霊の日記”。

この小説も、現実ならざることが長々と描かれる。そのくせ過去の挿話や小話が所々ある。しかしそれが今、起きている現実ならざることにつながっているのだ。つまりこの現在進行形で発生している現実ならざることは、決して現実ならざることではなく、現実としてあり得ることなのだ。

今起きている現実ならざることは、見方を少し変えれば現実になりうる。

特に造形家の木原根にとっては、この現実ならざることは娘が見ている夢なのだ。どうして受け入れてはならないのだろう。娘の夢には自分が源だと思われる事象が多々あり、馴染みがある。馴染みやすいが故に木原根は苦しむことにもなるのだけど。

 

始まりは上記のようなものだが、終わりはまさにSF。少々面食らったが、それも木原根の娘、理沙がみた夢の影響なのだ。そこの点と点が繋がるか。

現代の寓話を読んでいるみたいだった。まさに幻影。

 

 

バレエ・メカニック (ハヤカワ文庫JA)

バレエ・メカニック (ハヤカワ文庫JA)