狐が風鈴を鳴らす

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零式戦闘機

零式戦闘機、通称ゼロ戦

その機体は日本の誇りと意地の結晶だった。

優れた性能を持ち第二次世界大戦で活躍した機体。

しかし次第に大国が迫ってくる。追い詰められる日本。

そして…

 

 

ぼくにこの本を勧めてくれた人はこの本を絶賛していた。同時に”風立ちぬ”や“永遠のゼロ”のことを「あんなのクソだよ、クソ」と言っていた。(あれはああいうものなんだろうけど、と補足もちゃんとしていた)

読み終わってみるとそういった気持ちはわかる。すごいわかる。

この本を読んでしまったらぼくも「あれはああいうものなんだろうけど…」と言うことしかできない。それほどの作品だった。

 

作者の吉村昭をこの本を読むまで知らなかった。記録文学の新境地を開いた開拓者だったらしい。記録文学とは、名の通り記録された文学。先史の物事を記録する、しなおす文学といって間違いではないだろう。

記録とは事実に基づいて行われる。しかし記録した人物の主観が入ることは多々ある。それは当たり前のことだ。人は自らの身体を通して”語る”し”書く”のだから。

吉村昭はそのことを嫌っているかのように事実を書き連ねる。何時に何処で誰が何を如何様にして行ったか。徹底的にだ。

明治四十三年十二月九日東京代々木練兵場で陸軍大尉徳川好敏がフランス製アンリ―・ファルマン複葉機を操縦して約四分間、距離三、〇〇〇メートルをとび、陸軍大尉日野熊蔵がドイツ製グラーデ単葉機によって一分二十秒、距離一、二〇〇メートルの日本における初飛行に成功した。*1

この一文だけでわかるだろう。吉村昭は事実を書くことに心血を注ぐ。

だからこそ零式戦闘機という兵器、を通して戦争を書くことができたのだ。

この本の主役は零式戦闘機だ。人ではない。零式戦闘機を作った、作ろうとした、そして使った人たちはたくさん登場するが、あくまで主役はこの戦闘機だ。

この当時の水準を遥かに超越する戦闘機を作り上げた人たちは、同じ日本人として誇らしい。ゼロ戦を作る前に、同じ設計者たちが関り作り上げた九六式艦上戦闘機の時点で身震いをし、ゼロ戦を作り上げた時点でぼくはこの人たちに敬意を抱いた。

当時後進国を目されていた日本は先進国から、自力でなど航空機を開発などできないと、見下されていた。その日本が、当時の水準を、信じられないほど飛躍させ、世界最高の航空機を作り上げた。何年も第一線で活躍し続けたことからもその性能の高さがうかがい知れる。常識を塗り替えたのだ。

素直に、やった!と喜びたいが、それがしにくいことでもある。兵器だから。

それにこの圧倒的機体性能のおかげで日本はWWⅡに突入し、負けたのかもしれない。しかし兵器そのものに罪はなく、ゼロ戦をそれ自体批判することはできない。むしろ作り上げた人たちは凄い人たちだ。

 

そしてその兵器を通して戦争を描ききった吉村昭には驚嘆の一言。完璧主義者かと思わせる情報の密度と量。先に引用した一文だけでもその一端がうかがい知れる。

そして無暗矢鱈と飾り立てない。事実だけを書こうと努めているからこそ、この本はこんなにも戦争というものをあけっぴろげに書ききったのだ。良いこととはいわない。悪いことだともいわない。

この本を書くにあたって作成した取材ノートには「特攻隊員の死は純粋さから発したものであることはあきらかで、死者にむち打つような批判は避けるべきだ」と書いてあったようだ。後世からこの戦争を批判することは簡単で、だってもう結果は出ているからそれに沿うだけでいい。これがさらに性質が悪いのは自分が賢くなった錯覚を得てしまうことだ。答えを見た後に答えを言えば誰だって正解するだろうに、そのことを忘れてしまう。

そこにいなかったぼくらが罵詈雑言を浴びせるような真似はできないと思う。

 

零式戦闘機が追い詰められていくと共に、日本も敗北への道を辿っていった。

ただただ虚しい。

零式戦闘機 (新潮文庫)

零式戦闘機 (新潮文庫)

 

 

*1:新潮文庫P13 l1~より