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カランダールの雪(東京国際映画祭にて)

六本木で行われている東京国際映画祭に行った。

東京国際映画祭といえば六本木ヒルズの印象が強いが、実は新宿でもやっている。

今回は新宿でやっていた「カランダールの雪」を見てきた。

トルコ=ハンガリー映画。客も国際色豊かだった。

 

あらすじ

険しい山の上でわずかな家畜と共に電気も水道もない暮らしを送る家族。一攫千金を夢見る父は、山に眠る鉱脈を探している。しかし、家族の目には無駄な努力にしか映らない。やがて、村で開かれる闘牛に希望を託し、なんと家畜の牛の特訓をはじめてしまう…。*1

 

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当たり前なのだけれどコレ、トルコ語の映画で、東京”国際”映画祭出品作品だから英語字幕あり。勿論日本語字幕もあり。二つの言語で同時に翻訳されている映画を見るのは初めてだったから新鮮だった。始まるまでそのことに思い至らなかった自分はバカだと思いつつ映画を見る。

英語字幕は画面下部、日本語字幕は画面向かって右側に縦書きで。

会話が少ない映画だったからそこまで気にせずに見れた。

会話が少ないということは画で魅せる映画。飾り気がこんなにない映画を見るのは初めてかもしれない。ドキュメント出身監督だからか演出という演出もほぼない。ただそこにある自然を見せつけてくる。

こんなに自然が恐い映画は珍しい。自然の恐ろしさを描いた作品は数多くあれど、その大半は「自然は人の手に負えない大きな力で我々には太刀打ちはできない」視点。しかしこの映画、そんなことは知らない。たしかに自然に翻弄されはするが、そもそも主人公は身一つで山にのぼり、鉱脈を探す、「自然相手に博奕を打っている男」であり自然は畏怖すべき対象ではない。

空恐ろしいまでに、ありのままの自然を次から次へと見せつけてくる。それが一周回ってぼくには恐かった。どこに主人公がいるかわからないほどの大きさの山々や、白々しい岩壁に貼りついてつるはしを振っている主人公。暗い、いや、もはや黒い洞穴の中でたき火を起こして夜を過ごす主人公。靴の底をナイフで切り取って、種火に使っているのが印象に残った。

正直闘牛をすることになってからは少々退屈さを感じた。

闘牛始める前の夫婦喧嘩までが、鉱脈をひたすらに探している場面であり、其れからのちは闘牛に話しの焦点が移る。夫婦喧嘩はいつどこであっても変わらないのだなと思わされた。

でも自然を写すことは止めない。雪に覆われる山。霞がかかって視界がきかない草っ原。びっくりしたのが牛の出産シーン。唐突に始まる。隠すことなく牛の肛門?肛門から生まれるのかな?、を写す。ギョッとしてしまった。他にも家の前を埋め尽くすカタツムリだったり、自然の底知れなさを思い知った。

 

話自体は自然に挑む、情熱を抱く男の話である。なぜそうするのか、なにがそうさせるのか、その問いかけとして作った、と映画終了後のQ&Аで言っていた。

実在のある人物をモデルにしたとも言っていた。

この主人公の男、マフメット?だったか、非常に憎めない人物。しかし家族に居たら非常に困る人物。彼の家は借金を抱えているし、息子の治療費もいる。しかしお金がない。妻は日当が出る採掘現場で働いて、毎日少しずつでもいいから持ってきてくれと夫に頼む。それを無視して山に鉱脈探しに行っているくせに妻に頭が上がらない。この男は一発でドカンとお金を儲けようとしている。妻がローン思考に対し、主人公は大逆転をもくろむ博奕うち。彼なりに考えての鉱脈探しなのだが理解は得られていない。以前鉱脈を探し当て儲けたことがあるのがいけないのかもしれない。

けれど結果が出ていないから小さくならざるを得ない。「鉱脈が見つかったらみんな俺のことを凄い奴と思うんだ」みたいなことも言っており、意趣返しももくろんでいる。見つからなかった理由を「いつもより早く雪が降ったせいだ」と言っており増々小物だと感じてしまう。

こんなどこにでもいる、いそうな人物がどうしてあの恐ろしい自然に立ち向かえるのか、と考えたが彼にとって自然は恐ろしいものではなく、自分を形作っている一部なのだろう。そこにあるだけのもの。それが当たり前。

自分みたいに都市育ちの身からしたら考えも及ばない。

 

備考だが、この映画が今回の映画祭で一番長い映画のようだ。

 

この映画が500円で見れたのは良かった。学生かつ当日券だととってもリーズナブルで嬉しい。

映画終了後のQ&Аではトルコ語を英語と日本語に通訳しているためかテンポが悪かったがこれは仕方ない。が、質問するの下手すぎるだろう、という人がいた。質問途中に「なんていったらいいんだろう…コレ」はないだろう。司会者が質問を要約しようとするとなんか違うらしく、結構な時間を使ってしまっていた。もったいない気がした。

主演の人もいたが、映画と印象は違い、強面だった。強そうだ。

あとトルコ語の通訳の人は、本職ではないのだろうなということが察せられた。

*1:東京国際映画祭作品解説より引用)