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狐が風鈴を鳴らす

本 映画 音楽 その他諸々の雑感を書き連ねるブログ

Mって何さ

下手な官能小説よりエロティックじゃないんですかコレ(官能小説読んだことありませんが)と毛皮を着たヴィーナスを読んで思います。

何でもマゾヒズムの語源はこの著者のレーオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホから性科学者、初めて聞いたぜこんな科学分野、のクラフト=エビング博士が命名したとのこと。このひとサディズムも命名したって。今では簡単にSとMで二極化されて、広く使われる、意味も広義にわたるようになったこの言葉ですが、そのもととなった人が書いた本はとんでもないものでした。いやあ、頭おかしいんじゃない?と思わず感じちゃったほどです。

ぼくを一生愛し、結婚してくれ!さもなければあなたの奴隷にして欲しい

マゾヒズム全開の青年、ゼヴェリーンは言います。

そもそもマゾヒズムってなんぞ?と思うのです。前述したとおりエビング博士が名づけたこの言葉。元々ドイツ語らしい。ドイツ語の発音だとマゾヒスムスになる。ようするにいたぶられるのが好きな性的嗜好、と言ってしまえば簡単なのだけれど、そんな甘っちょろいものではない、と思います。単に鞭で叩かれて喜ぶわけじゃない。痛みと、快楽(といっていいのか)は直結しているわけではなく、傷を負うことによって自らを捧げているという、一種の自己満足、自己陶酔があって初めて、苦痛は喜びに昇華するんじゃないのでは?

ゼヴェリーンは、度々ワンダ、毛皮を着たヴィーナスに、憎む、と言います。このことだけでもただ一方通行なものではないことがわかると思います。マゾヒスムスに必要なのは、その痛みを与えてくれる相手で、その相手が喜んでくれることが必須なのです。殉教者みたいに、自らの行為が省みられなくてもいいわけじゃない。

ワンダはゼヴェリーンに懲罰を与えますが、それはこの男に望まれてのこと。最初のころワンダは単純に「貴方と結婚出来るかどうかはわからないけれど、好きよ、愛している」とこんなようなことを言います。それを鞭で叩くようにしむけているのはゼヴェリーンなんです。ワンダはゼヴェリーンを愛しているがために、こんなことをする。ゼヴェリーンからしてみれば愛してくれる女性が、自分の逆嗜虐趣味に付き合ってくれて一層嬉しい。けれど、ワンダからしてみれば愛している、対等に、いや、むしろ引っ張ってくれるような男と愛し合いたいのに、身を投げ出し、ゴミのように足蹴にされることを望んでいるこの男、腹立たしい。

主従契約を結んで、ワンダが主人、ゼヴェリーンが奴隷です。ゼヴェリーンに対して絶対的な力を与えられたワンダは傲慢になります。本人がそう言っています。「あたし、傲慢になるわよ」と。そう見えなくもないけれど、ぼくには傲慢だとは思えなかった。なんだかんだ言ってゼヴェリーンのことを愛しているから。縄で縛り、使用人にもいたぶらせて、他の男の許に遣わせる。一見、ワンダのことを愛しているゼヴェリーンにとって残忍な仕打ちだけれど、ワンダはゼヴェリーンのワガママを訊いてあげているだけにしか思えなかった。

そしてこの関係は破綻します。それは解りきったことではないでしょうか。

そしてこんなわかりきったことでも、それを渇望してしまうのは性である。

 

やっぱ官能的な話でした。はだかで着ているのは毛皮だけなんだよ!?すげぇぜ!細かく言えば、ただ首に腕を回す、という恋人同士によく見られる仕草を、うなじに腕を絡ませる、と描写します。後者のほうが扇情的であると思う。そもそもワンダが扇情的な女性であったからこそこの話しは生まれた。

ティツィアーノが描いた、毛皮を着たヴィーナスがこの話では重要なモチーフになっています。この実存している画からワンダという女性は生まれ、彼女は都雅で蠱惑的になったのでしょう。そして回帰するような考え、古代ギリシャでは性に関しては寛大であった、現代では放蕩な考え方を彼女に宿らせた。要するに男はよりどりみどり、みたいな。そんな彼女だからこそ、ゼヴェリーンの願いに応えたのかもしれない。

結局ゼヴェリーンが得たのは、ある考えですが、まあなんというか、このことを知るためにここまでしなければならなかった彼は、なんていったらいいのだろう、純真だった、と。

それにしてもネットって便利だよね、”毛皮をきたヴィーナス”で調べれば例の絵が見れるんだもの。もっと知識があればもっと楽しめたのだろうなー

あ、結局この本好きです。

 

毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)

毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)